後輩「先輩、瞑想ってどうやればいいんですか?」
私(こいつ、迷走してるなぁ・・・)
その時はやり方が重要ではないと思っていることを説明しましたが、瞑想やマインドフルネスの目的を上手く説明し切れなかったような気がするので、今度後輩に説明するためにちょっと考えを整理してみます。
個人的な理解なので、参考程度に。
やり方に拘ることはないと思う
まず、やり方はどうでもいいと個人的には思います。どこか静かなところで所定の時間を使ってかしこまった風にやる必要なんてなく、むしろ日常的に自然体でやっていればいいのではないかなと。
もちろん慣れないうちはちゃんと場を作る事にも意味はあると思うのですが、朝に瞑想をして心を落ち着かせた人が昼にそれを忘れて部下へ怒鳴り散らしているようではあまり意味が無いと思いますので、個々人がやりやすいやり方で、瞑想状態を常に継続するような習慣を作ったほうが気楽ではないかなと。
まあ、言うは易しではありますが。
瞑想やマインドフルネスの目的に関する理解
『今、この瞬間に集中する』ことが瞑想やマインドフルネスのコアで、そうすることによって様々な利得があるとされています。
先日アメリカへ行った際、飛行機待ちの暇つぶしで買ったMindfulnessの本の背表紙から文章を引用してみましょう。
The benefits of mindfulness include better performance, heightened creativity, deeper self-awareness, and increased charisma-not to mention greater peace of mind.
引用元:Harvard Business Review Press『Emotional Intelligence MINDFULNESS』
マインドフルネスには、パフォーマンスの向上、創造性の向上、自己認識の深化、カリスマ性の向上などの効果があり、心の安らぎを得ることができます。
何やら色々とお得な感じがします。
ただ、「あれもスゴイこれもスゴイ」を詰め込み過ぎているような気もします。ビジネス感がスゴイです。
もちろん自己理解やリフレッシュ、ストレス軽減や人生を豊かにすることなど瞑想やマインドフルネスで謳われているベネフィットを否定するつもりは無いのですが、瞑想やマインドフルネスは仏教ベースの発想ですのでもっと仏教の基礎部分、すなわち「心の安らぎ」を得ることが瞑想やマインドフルネスの目的だと私は単純に考えています。
私は僧侶ではないので仏教的な厳密性や理解は怪しいところが多々ありますが、『今、この瞬間に集中する』ことでなぜ「心の安らぎ」が得られるのか、個人的な理解を説明していきます。
四法印
仏教の根底にある教えを「四法印」と言います。これは『諸行無常』『諸法無我』『一切皆苦』『涅槃寂静』の4つの教えを指します。
難しく説明すると際限なく難しくなるので、すごく簡単にまとめていきましょう。
まず『諸行無常』。
全ての物事は流転して変化するものであり、常の形は無いとするものです。
長い目で見ればどんなものだって変化していきますので、これは感覚的に理解しやすいと思います。
今は悪くとも後に良くなることが有り得るとポジティブな捉え方もできるでしょうし、物事には絶対的な存在や状態が無いのだから変革が必要だと能動的に考えることも可能です。
次に『諸法無我』。
全ての現象は因果関係に基づいて定まるものであり、孤立した我は存在しないとするものです。
これも唯一神の存在しない東アジアの価値観に生きる日本人ならば理解は容易だと思います。何かしらの絶対的な存在が物事を差配しているのではなく、全ての現象がそれぞれ影響し合って相互に作用することで定まるのであり、単独で成立する我は存在しないとする考えです。
『諸行無常』と『諸法無我』の二つから導き出される結論が『一切皆苦』です。
全ての物事が相互に作用して変化していくのであれば、それは「世の中の全ての物事や現象は自身の思うままにならない」ことを意味します。
これは運命論的な思想、つまり物事は既に定まっているとする諦観とは少し異なり、私が世界に作用することはできるが、世界も私に作用してくる以上、世界は自らが望んだ通りには定まらないことを意味しています。諦観ではなく、納得すべき理を提示しているだけです。
それを理解せずに我に拘り、物事に執着し、自己中心的に自らの欲を満たすことを求めてしまうと、望んだ通りに欲が満たされず苦しむことになります。
また、たとえ何か望むものを手に入れて欲を満たせたとしても、それを失えばやはり苦しみに至るでしょう。
我に拘り欲に拘ると一切の事柄が苦に変わる、これを『一切皆苦』と言い、そういった拘りを手放して苦しみから解き放たれた状態を『涅槃寂静』と言います。
例えば、お金があると大抵の人は嬉しいじゃないですか。でもお金が無くなると悲しくなりますよね。
また、お金をたくさん持っていても失う恐怖は残りますし、維持することには苦しみが伴います。
お金が無くても楽しくする、のはただの諦めや我慢に過ぎません。それはお金が欲しいという欲を抑えているだけであり、やはり苦しみが生じます。
欲の無い状態とは、「お金があっても無くても楽しい」ことです。
ざっくばらん過ぎる説明
これらを組み合わせて仏教の教えを整理すると、次のような感じだと思っています。
「そもそも苦しみを感じる必要なんてないんだ」
「苦しみは物事が自分の思うままにならないからこそ生じるものだが、そもそも世の中でお前の思うままになることなんて存在しないんだ」
「全ては相互に作用しあい、変化していく。それが自然なことで、苦しみとは他所からやってくるものではないんだ」
「つまり、苦しみを生んでいるのはお前の"我"なんだぞ」
瞑想やマインドフルネスは『今、この瞬間に集中する』ことで己に向き合う行為です。
つまり、瞑想やマインドフルネスによって「心の安らぎを得る」ことができるのは、行為そのものの物理的な成果ではなく、苦しみを生み出している”我”を見つけることができるからだと、そう理解しています。
だから、やり方はさほど重要ではないとも考えます。
結言
私個人は理系的なやり方でのマインドフルネスを日常的に行っています。何かしらで苦しいと感じたら、なぜそれを苦しいと感じるかを理詰めで追っていくだけです。これをマインドフルネスだと言うと専門家に怒られそうな気もしますが。
まあ、仏教は宗教というよりは哲学ですので、理詰めの理系的発想とは相性がいいと思っています。
例えば、仕事中に訳の分からない無茶苦茶なことを人から依頼されたら誰だって腹が立ちますし苦しくなるものだと思います。
なぜ腹が立つかと言えば「私の思う通りに仕事が進められない」ことや「私の望む依頼の要件」を満たしていないからでしょう。
でもよくよく考えてみれば、そもそも私の思う通り望む通りに他人が動くことを求めるから苦しい(一切皆苦)だけですし、苦しむのではなく私の思う通り望む通りに他人が動くよう働きかけてみればいい(諸行無常)だけであって、別に苦しむ必要は何も無いことに気付けます。
そういった思考モードに切り替えるためには、腹が立って苦しいと感じている”我”を見つける必要がありますので、その点で自らの”我(アートマン)”に向き合う瞑想やマインドフルネスには意味があるのではないかと考える次第です。