忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

理屈があろうがそれは行動を正当化するものではない

たまには過激なことを言ってみる

 通り魔事件で被害にあうのは大抵が女性や子ども、高齢者のような身体的に弱い立場の人々です。犯人にも何らかの理屈があるのでしょうが、申し訳ないことに私にはさっぱり理解できません。そんなに人に危害を加えたいのであれば弱い人を攻撃なんてせず、ヤの付く自由業の方々の事務所でも襲撃すればいいじゃないですか。

 犯罪心理学の観点からすれば通り魔事件の犯人は子ども時代の環境や教育に問題があり社会に適合できていない可哀そうな人であることが多いとされています。よって「だから社会を改善しよう」なら分かります、それは皆で考えるべきことです。しかし「だから犯人にも同情の余地がある」は納得がいきません。環境が悪かろうが社会に適合できていなかろうが人に危害を加えずに頑張って生きている人々がいます、被害者だってその一人かもしれないのです。どのような理屈があろうがそれは犯人の行動を正当化できるものではないと私は考えます。人々が同じ社会の土台に立って生きている以上、公平(ジャスティス)であるためには加害者が持つものを取り上げて被害者に与える何らかの補填が無ければ、被害者は一方的なやられ損となってしまいます。

 社会が悪いのであって犯人が悪いのではないという考えがあることは分かっていますが、私は社会が悪いことと犯人が悪いことは二律背反とはならず両立し得ると考えます。

 もちろん悪人を皆で取り囲み血祭りに上げろと言いたいわけではありません。個々人が悪人を叩くような行為はそれこそ犯人と同じ穴の狢だと考えるからです。人々がいちいち悪人を叩く必要はなく、刑法を代表とする社会的公平性を保つためのシステムを粛々と実行すればいいだけです。

理屈があればいいわけではない

 誰かが何かを失敗した時、その際に外野の人間がその誰かへ石を投げるかのように攻撃をすることがあります。その失敗は悪であり、それを責めることは正義であるという理屈を持ってです。SNSでの炎上などは代表的なものでしょう。あいつは悪人だから石を投げていいんだ、いや、石を投げることこそが正しいんだ、という考えに基づいた行動は日々各所で散見できるかと思います。

 しかしながら理屈があれば何をしてもいいわけではありません。理屈という虚飾を取り払ってしまえばそこには人に石を投げるが如き行為が残るだけです。それは決して善と呼べる行為ではなく、むしろ悪行と呼ばれるべきものです。私には理解できませんがそれこそ通り魔の犯人にも犯人なりの理屈があるのでしょう。しかし如何な理屈を保有していたとしても犯人の行動が正当化されるものではないように、勝手な理屈で悪行を正当化するような振舞いは通り魔の犯人と同レベルに堕ちてしまいかねないものです。

 類似の意見として「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ」のようなものがありますが、これにも私は納得がいきません。そもそも撃つなと。覚悟したと勝手に自己完結すれば人に危害を加えてもいいというのは道理が通らないでしょう。それこそ言ってしまえば通り魔事件の犯人だって犯人なりの覚悟は決まっているわけで、それを正当化しかねない発想は私の好みではありません。

社会的な合意の価値

 話は少し循環しますが、悪行と処罰に関する議題においては処罰を加えることも同様に悪ではないかという疑問に行き着きます。法的根拠なりといった理屈を取り払えば処罰は悪行と類似したものだからです。このような議題での顕著な事例は戦争における殺人と死刑制度です。どちらもそれを社会集団が許容するかによって悪行となるかが変化します。

 これらの例を悪と取るかはそれこそ個人の価値基準に基づくため、断定的な結論を出すことはできません。正義というものが可変的で集団の合意にあると考える人からすればこれらに社会的合意があれば悪行ではなく、何らかの普遍的な正義が存在すると考える人からすれば社会の合意など関係なく条件次第で悪行と判定されることでしょう。

 個人的な見解としては正義とはそれぞれの社会と時代で可変的なものだと考えているため、その時々で適切だと社会が信じることを正義と見なすべきだと考えてはいます。

 しかしながらそれは別の正義を否定するものではありません。人によっては戦争だろうがなんだろうが殺人は殺人だと考えるでしょうし、死刑は国家による殺人だと考える人もいるでしょう。そういった個々の信ずる正義を寄せ集めて社会的合意を取ることこそがその社会における正義だと私は考えます。

 正義については少し話が逸れてしまうため、ここまでとします。正義は難しいテーマですので今後も取り上げて徐々に掘り下げていきます。