忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

他者への攻撃性に関する考察

攻撃性の発現は損失が大きいと思っている

 どうして世の中には他人に対して攻撃的な人が居るのだろうと常々不思議に思っています。何の得があるのだろう、自身の溜飲が多少下がったとしても相手が嫌な気持ちになる分プラマイゼロじゃないか、特に不特定多数が見れる環境で他人を攻撃するような行為なんてマイナスのほうがよっぽど大きくなって大変な損失じゃないか、とか思うわけです。

 物事はプラスになることをしたほうがお得だと考えます。発信者は楽しんで発信し、受信者は楽しめる物事を選択して楽しむ、楽しめない時はマイナスにならないよう離れる、そうすれば全体的にプラスになるので皆ハッピーでしょう。

 まあ、しかしながら他者を攻撃する乃至は他者の攻撃性を楽しむというコンテンツがあると言えるかもしれません。炎上案件を煽りに行くような人はまさにそれを楽しんでいるのでしょうし。

 とはいえ正直なところ攻撃性を発揮している人を見るのは個人的には面白くないです。だから私としてはなるべく離れるのですが、声が大きかったり炎上が大きいとどうしても火炎が目に入ってしまうのが困りものです。

 ああ、この記事も攻撃的な人を「攻撃」するような記事になりそうで嫌だ嫌だ。

余裕(バッファ・ゆとり)が足りない

 他者に攻撃性を発揮するのは様々な理由があると思います。他者のことはどうでもよくてとにかく己の感情を処理したいという利己心が強い人、攻撃性をコミュニケーションの一環と考える人、支配欲に起因するマウントを取りたい人、劣等感や地位財のために他者が利益を得ることが気に入らない人、他にも様々な理由があるでしょう。

 もちろん生得的なものばかりではありません、環境や状況に依ることも多々あります。菩薩のように悟っている人は別でしょうが、普通の人であれば心にゆとりがある時は怒りが生まれず、余裕が無い時は怒りから攻撃的になるものです。

 つまるところ自身に余裕、すなわちバッファやゆとりが足りないモノに対して人は攻撃的になりがちです。時間が足りない時に時間の掛かるタスクが新たに発生すると苛立つでしょうし、お金が無い時に想定外の支出が発生すると機嫌を損ねるでしょう。自分が成功していない、上手くいってないと思っている人は成功者に腹を立てます。人が何に対して攻撃的になるかというのはまさに鏡のようなものです。

余裕は主観で考えたほうがいい

 昨今の通信技術の発展によって、人は自分と無数の他者とを比較するのが容易になりました。それは良いことも多々ありますが、物事の相対化が進むという点では悪い場合もあります。自身に余裕があるかどうかは相対的なものではなく主観的なものであるべきだからです。「誰それと比べて私には足りていない」と比較して考えてしまうと、それこそ足りているものなんて何一つ無いでしょう。どこかの誰かは必ず何らかを自分よりも持っていますし、ありとあらゆる全てが満ち足りることなんてあり得ません。

 重要なのは人の持っているモノとの相対的な比較ではなく、自分にとって主観的に不足しているかです。そのように考えたほうが怒りを覚えることが減って攻撃的になる必要が無くなり、心が楽になると個人的には思います。

父の教え

 他者の攻撃性に曝されると受けた側も攻撃的になりがちです。危害を受けそうな状況に陥ると動物は本能的に”戦うか逃げるか反応(fight-or-flight response)”が発動するからです。その本能を避ける方法について私の父から教わった方法を一つ紹介してみます。

 コツは想像力です。

 イライラしている人を見たら「お腹が空いているのかな?」

 車を飛ばして煽るような人を見たら「両親が危篤で急いでいるのかな?」

 怒鳴り散らす人を見たら「寝不足なのかな?」

というように、攻撃性に対して何らかの理由付けをすることです。理由はまったく適当で問題ありません。とにかく適当でも理屈があれば人は腑に落ちて本能的な反射を抑えやすくなります。恐らく本能を司る脳幹あたりではなく大脳で処理しようと切り替わるからだと考えています。いちいち人の攻撃性に感化されるのも腹立たしいものですので、案外おすすめです。

余談

 私が攻撃的な人を見ると嫌な気持ちになって攻撃的になるのは、鏡の理屈から考えると私に攻撃性が足りないせいなのかもしれません。つまり私がもっと攻撃的になれば攻撃的な人を不快に思わないで済むということで、うーん、本末転倒では?