忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「私」という自己の存在価値

 私は私である、という命題は本人にとっては疑う余地のない真ではありますが、他者からすればその命題の真偽には意味がありません。自己の認識というものは「私」にとっては重要ですが、他者にとって重要ではないものです。

 

他者による認知こそが「私」を形作る

 自己認識には常に外部を必要とします。まったく他者を知らずに育った人が「私」という自己を認知できないように、外部である他者の存在があって初めて「私」と「他者」という認知の分離に意味が発生します。自己を把握するためには他者との比較、境界線を認知する必要があるということです。

(境界を認知して初めて彼我を識別する意味が生まれる)

 

 そのことは同時に「私」という存在の形は他者の認知、無数の自他の境界線によって定まることを意味します。

(境界の積み重ねで自己の形状が定まる)

 

 さらに言えば、他者との境界、彼我の違いと比較によって自己の形が定まる以上、自己の形というのは他者の形と認知に完全に依存します。冒頭で書いたように、「私」が自己をどう認識していようが、他者から見た「私」という存在の形は他者の認知によってのみ定まるということです。

 

 もう少し具体的に考えてみましょう。「私は頭が良い」と考える人がいたとします。しかし他者はその人の言動を見た結果から誰もがその人を「頭が悪い」と認知した場合、その人は頭が良いと言えるでしょうか。

 本人からすれば「私は頭が良い」と認識していることでしょう。そしてもちろん周囲はその人を「頭が悪い」と判定します。その結果、相対的な認知の強度から「私」は「頭が悪い」ということが真となります。「私」を定義する支配的なものは他者の認知であり、「私」が「私」のことをどう思っていようと周囲には関係ありません。膨大な他者の認知に勝るほどの自我を持っていようと、人の世界においてその「私」は「頭が悪い」と定義されるのです。

 

 少し状況を変えてみましょう。とても温厚で紳士的な人物がいたとして、その人が事故で頭部を怪我した結果、短気で怒りっぽくなったとします。本人からすれば自意識に変わりはなく、「私」は「私」であり、同一性と連続性が保たれていると考えることができます。しかし周囲からすればその人はもはや別人です。その人が遠くの街へ越して過去のことを知る人が居なくなれば、その人を温厚な紳士と定義する人はいなくなります。

 自己が認識する同一性と連続性、すなわち「私は私である」という命題に対する真偽は他者からすれば意味がありません。

 

「私」にとって意味のある「私」の価値

 この考え方にはいくつかの重要な示唆があります。

 まず「私」というものの価値は「私」にしか意味が無いことと、そしてそれは無価値とは異なるという点です。

 この「私」という自己の存在は人格と呼ぶものです。他者の認知が不定形で可変であるのに対して、人格は他者の認知に依存せず自己を普遍的に定義し得る絶対的なものであり、その存在は他と代替が利かないものです。

 この世におけるほとんどのものは相対的な価値を持ちます。人の役に立つか、世の役に立つか、将来の役に立つか、替わりはあるか、そういったものに還元していくことが可能です。極論ではありますが生命だってその相対的価値を問うことが出来てしまいます。

 しかし、その他のものが相対的に価値が定まるからこそ、替えの利かない人格は道具的効用という相対的価値から離れた普遍的・内在的・絶対的な価値を持ちます。すなわち人格には存在するだけで価値があるということです。他者にとっての道具的効用が無かろうとそれは無価値ということではありません。

 

 自身に人格があるように、他者にも人格があります。他者の人格は自身の認識に影響を与えるものではありません。道具的効用は存在しません。よって他者をどう認知するかはその他の人々の認識次第ではありますが、その他者の人格を否定することは断じて不適切です。人格こそが個々人にとっての絶対的価値であり、聖域であるがゆえに、それを踏み荒らすことは他者の尊厳をないがしろにする最も愚劣な行為と言えます。

 道具的効用に囚われて他者の人格と尊厳を毀損するのであれば、自身が道具的効用によって消費され廃棄されることも受け入れなければなりません。他者の価値を尊重せずに自身の価値が尊重されることを望むのは傲慢というものでしょう。

 度々となりますが、人の人格は他者にとって何の価値も意味も無いものです。

 しかし、だからこそ、それはかけがえのない重要なものだということを認識する必要があります。

 

 

余談

 カント的な哲学思想を整理しただけであまりオリジナリティの無い内容になってしまいました、残念です。

 

 最初は「普段とまったく異なる口調で語りかけるような文章」を考えていたのです。まったく別人のように。そうすることで私の中身は変わっていないが他者から見れば同一人物であると定義できなくなることを示そうかと。

 しかしながら私はよく不定期に変な文章を書いているため、「例のパターン」「おっ、始まったな(笑)」と同一性を感じ取られる可能性を危惧し、諦めました。

 これぞ自業自得。むしろ自縄自縛?