「自分らしく生きる」という言葉はSNSやブログなど個人の発信している情報や、リクルート・ビジネス関連のwebサイトなどでよく見かけます。
恐らく私は他者から見ても自己認識的にも「自分らしく生きる」ことができている自由人です。
そんな人間ですので、自分らしく生きることを否定するつもりはまったくありません。むしろ誰もが自分らしく生きることができる社会を望ましいと思っています。
今回はその共有として、「自分らしく生きる」とはそもそもなんぞや?といった考察をする予定です。
「自分らしく生きる」ことの層別
「自分らしく生きる」、この言葉はそもそも、指し示す意味が明確ではないと考えています。
「自分らしく生きる」が含意する意味は大きく分けて2種類あると思っています。
一つは他者の影響を減ずること。他者の意見や周囲の環境に流されず自らの望む通りの言動を行うことは自分らしく生きていると言えるでしょう。
一つは他者に影響を及ぼすこと。自らの望むままに振る舞うため他者の意見や周囲の環境を変えようとすることも「自分らしく生きる」には含まれている場合があります。
十人十色のこの世界において、自身の色を保持するために他者の色が混ざるのを避けることが前者であり、自儘に振る舞うため他者の色を自身の色で染め上げようとすることが後者です。
自由と自儘は違う
他者の影響を減ずる前者は現実的に可能なフォーカスです。人に言われるがままに行動することを避けたり、自らの望むままに発信することは物理的に不可能なことではなく、これは言い換えるのであれば自由と言えるでしょう。
私にとって「自分らしく生きる」とはこちらを意味します。
それに対して他者に影響を及ぼす後者は極めて非現実的なフォーカスです。自らが望むままに他者を動かすことを理屈として通すのであれば、自身も同様に無数の他者の望むままに動かなければ筋が通らない話となります。自分は他者を意のままに操りたいが自分は他者に操られたくない、というのはただの自儘でしかありません。
あるいは前者は経過に対するものであり、後者は結果に対するものです。
何らかの制約条件はあるものの、誰しも経過はある程度自由に差配することができます。しかし結果をコントロールし切ることは不可能です。自らの望む通りの結果にならなければならないと他者に強要するのは、やはり我儘でしかありません。
「貴方はそう思うのですね、私はこう思います」が前者であり、
「私はこう思うので、貴方もこう思いなさい」が後者です。
どちらも一種の「自分らしく生きる」ことに他なりませんが、後者では互いのエゴを押し付け合い社会全体が上下関係や序列によって正誤の判断をするようになってしまい、あまり望ましい結果をもたらさないと私は考えます。
結言
確固たる自己を保持することと、確固たる自己を他者にぶつけて押し通すのは異なるものです。前者は自由であり、後者はただの我儘です。
「自分らしく生きる」ことは自己完結的なものであり、他者に自分を押し付けることでは無いと、そう思っています。