忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

自分の人生を生きることとは、他人の人生を蔑ろにすることではない

 

 似ているようで、まったく異なること。

 

自分の人生を生きること

 どれだけ他者の手助けがあろうとも自らの人生に対して責任を負っているのは唯一己自身のみであり、他者は責任の主体者足り得ません。

 責任とは結果に対処する義務であり、決定も、判断も、他者に委ねることはできますが、その委ねた結果に対する責任はやはり自らのものです。

 そして自らの責任を取れない人が社会に対する責任を負えるはずもなく、大人はまずもって社会に対する責任ではなく自らに対する責任を果たす必要があります

 率直に言えば、大人とは自らに対する責任を取れる人を意味します。

 

 よって自分の人生を生きることは誰にとっても最上位の目的にあるべきです。

 自分の人生を生きることとは、自ら判断し、自ら委ね、自ら決断し、そしてそれらの結果に対して自らの責任を負うことです。

 自らの人生を歩まず、自らの人生に責任を取れない人が他者や社会に施せるものなどあまりありません。大人はまず何よりも自らの人生を歩むことができなければならず、よって自分の人生を生きることは第一の目的として適切な設定です。

 

 つまるところ、大人にとって自分の人生を歩むこととは責任と納得を伴った人生を歩むことに他なりません。

 自ら招いた結果に対する責任とそれを引き受けることへの納得があれば、どのような結果になろうとも人は自らの人生を生きていると感じることができるでしょう。

 

他人の存在

 ここで留意すべきは、「自分の人生を生きること」と「他人の人生を蔑ろにすること」は同義ではないことです。

 もちろん他人の人生にかまけて自らの人生を蔑ろにすることは不適切です。それは自分の人生に対する責任から逃げているに過ぎず、本人にとっても社会にとっても不幸な結果を招きます。

 しかし他者の考え、他者の意見、他者の行動、他者の感情、そして他者の人生を蔑ろにしたとしても自分の人生を生きることには繋がりません。自分の人生を生きる上で必要な「自らのもたらした結果に対する責任と納得」と「他者の存在」はまったく別の軸です。

 

 繰り返しとなりますが、自分の人生を生きることとは、自ら判断し、自ら委ね、自ら決断し、そしてそれらの結果に対して自らの責任を納得して引き受けることです。

 他者を蔑ろにした結果を自らの責任として納得を伴って引き受けることができるのであればそれは一つの選択ではありますが、それは決して必須ではありません。

 

結言

 自らの人生を生きることとは、他者を否定したり他者を拒絶することではなく、他者からの変容を自らの意志で受け入れるか否かの決断を自らが行い、その結果に対する責任を自らで納得して引き受けることです。

 自身に対する意思決定は自らの内で完結するものであり、他者の意を阻害したり、ましてや他者の人生を蔑ろにするような行為は必要ありません

 

 個人的な趣味・嗜好の範囲ですが、私は誰かのために自らを投げ打って施す行為もその結果に対する自らへの責任を納得して引き受けるのであれば正しく自らの人生を生きていると考えます。他者と関わる自分もまた自分であり、他者の介在しない人生はあり得ません。

 よって自らの人生と他者の人生、いずれかに偏重するのではなく、その双方を尊重し蔑ろにしないことこそが理想的な歩むべき道であり、自分の人生をより良く生きることに繋がると信じます。