忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

複雑な物事を複雑なまま捉えるためには哲学が必要ではなかろうか

 とても残念ながら、世の中はとても複雑なものです。無数の人間が様々な思惑を行使するこの世の中は表面をなぞって単純な方程式を組み上げたとしてもそれが現実を的確に写像できることはありません。現実は解の無い複雑なn元m次の連立方程式です。

 例えばニュースに対して善悪を判断する行為一つ取っても本来は行うことができません。報道されたことが事実であるか、報道されていない情報はないか、その裏の構造的事象を把握できているか、そういった多側面を私たちは観測し得ません。そしてラプラスの悪魔はすでに死んでおり私たち人間は原理原則において完全情報を得ることができない以上、複雑な世界の全てを見晴るかすことはできませんので、確実な解を得ることも叶いません。

 つまり私たちは何事においても断片的な情報に基づいて即物的で短絡的な”解と思しき何かしら”を手にすることしかできず、それが真かどうかは常に検証の余地が残ります。

 

検証し続けること

 私たちが手にできる解は必ず不完全で不確実なものです。どれだけ真値に近いと確信を持っていたとしてもその解は原理原則に基づいて必ず不確実なものとなります。

 この点がとても重要です。手に入れた”解と思しき何かしら”を疑い、たとえ真値に辿り着けないことを知りつつも常に検証し続けることには意味があります。たとえ無限回の試行が必要だとしても、不確実性を少しずつ削り落としていくことは”今よりも少し”真値に近づく行いです。たとえ真値から離れたとしても試行を受けた解は試行を受けていない解よりも優れています。

 よって私たちは手にした解を真値だと確信することこそを避ける必要があります。それは必ず誤認であり、誤解です。

 

解を求め続ける学問

 とはいえ手に入れた解を疑い検証し続けることは難しいものです。古代より大木や巨石が信仰の対象となったように人は安定的なものを好む傾向を持っています。だからこそ実際には不安定な解を安定的な真の解だと誤解することを好んで行う認知バイアスが私たちには存在しています。

 また、人が生きる上で正しい解は必ずしも必要ではありません。国家・愛・信念など人は自らが信じられる幻想さえあれば生きていくことができます

 むしろはっきり述べてしまうのであれば、私たちには無限の時間が無いのだから正しい解を求める作業は徒労以外の何物でもないでしょう。

 複雑な世の中の複雑な物事を複雑なまま捉える必要は欠片もなく、むしろ自らの思うがままに好き勝手捉えるほうが楽で自然です。それが他者の幻想と衝突したのであれば、争って倒せばいいだけの話です。だからこそ世界には争いが絶えませんが、それは人々がそう望んでいるからに他なりません。

 

 解の無い問いを解き続けることは常道における人間の思考回路ではなく、しかしあえてそれでも他者と争うことを避けて本質的な解を求めるのであれば訓練が必要です。

 その訓練には哲学が適しています。

 その他の科学学問と異なり、哲学は解の無い問いを扱う学問です。絶対的な正解は無く、しかしそれでも真値に辿り着くための無限の試行を数多の叡智が繰り返しています。

 幻想の世界をあえて抜け出して苦行の道を行くのであれば、そして複雑な世界を複雑なまま捉えることを望むのであれば、碩学の積み重ねてきた巨人の肩の上に座り世界を眺めることが最適だと言えます。

 

結言

 複雑な物事を複雑なまま捉えることは難しく、また必ずしもそうする必要はありません。自らのフィルターを通して世界を単純に捉えるほうが生物として自然な行いであり、それは誰に否定されるものでもないのですから。

 ただ、それでも幻想を捨て去り世界の輪郭を僅かでも明瞭にしたいのであれば、まずは哲学から学ぶことが良いでしょう。