ここ数日ほど『感謝の要不要』についてネットの一部で騒がれていたのを見かけましたので、感謝の考え方に関する凄くふわふわした個人的見解を語ってみましょう。
通常、感謝は何かしらの喜びをもらった時にするものです。
例えばプレゼントをもらったり、親切な対応をしてもらったり、困りごとを助けてもらったりしたときは感謝の言葉を述べることが適切でしょう。
しかしながら、喜びをもらったから感謝をするのではなく、感謝をするから喜びが生まれる。そういった側面もあるのではないかと思っています。
なんとも、実にふわふわした話です。
感謝の是非に関する自論
私自身は飲食店やコンビニでもお礼の言葉を述べるタイプの人間ではありますが、反対に自分が何かしらをした際に人から感謝の言葉がなくてもまったく気にしませんし、感謝の言葉があったらちょっと嬉しいくらいの受け取り方です。
感謝はマナーの一種であり、そしてマナーは無ければマイナスの減点方式ではなく有ったらプラスの加点方式で見たほうがいいと思っています。つまり私は感謝の言葉を述べることを対価や取引のようなものではなくプラスアルファな行為だと考えています。
感謝しかり手助けしかり、誰かに対して何かをする行為を義務化するとその義務を果たすことが難しい人を罰せざるを得ない雰囲気になりかねず、私はそれを恐れます。それよりは「あったら嬉しい」くらいの温度感のほうが誰にとっても気楽でしょう。
「人様に迷惑をかけるな」を問題と考えて、その別解とすべき倫理規範として「人助けをしなさい」が適切だとする言説があります。
ただ、私は人助けを積極的にやりたい人間ではありますが、「人助けをしなさい」を社会全体の善の規範とすることには否定的です。それをしてしまうと「人助けをしなければならない」とした強制性が生じて、それが長じれば「人助けをしない人は悪」とまでなりかねないと考えます。
そのような規範は人助けをする余力の無い社会的弱者にとって悪い方向に働きかねません。人助けをするリソースをたくさん持っている人、直截的に言えば「金持ちが善」とした拝金主義的発想に至りかねませんし、社会的弱者であることそれ自体が利権と化して欧米やアフリカのような格差の固定化にも繋がりかねません。
それよりもまずは自立を善とし、しかしお互い様の精神で共助も行われる、そのような社会のほうがバランスが取れて弱者にも優しいのではないかと愚考するばかりです。
感謝から生まれる喜び
感謝をしない人にも色々と理由はあるでしょうし責めるつもりはさっぱりないのですが、感謝を喜びへの対価や取引として考えることは少し勿体ないような気がします。
その発想では自身が気付くことのできた狭い範囲でしか喜びを見つけることができません。
言い換えれば、感謝を述べる行為は日々の喜びに気付くためのトリガーです。
これに感謝できるんじゃないか。
あれは感謝できるんじゃないか。
そうやって感謝できる対象を能動的に探していくと、世界には意外と多くの喜びが満ち溢れていることに気付くことができるかもしれません。
人のちょっとした親切や手助け。
いつも一緒にいてくれたり、話し相手になってくれる人。
誰かが建てた建造物や誰かが作った道具。
生態系の維持に欠かせない動植物。
植物を育んでくれる太陽や地表の温度を調整してくれる雲。
この世のありとあらゆるものが私たちの生活に繋がり私たちの日々を支えている、喜びを生み出している元です。
そのような感じで「まず感謝ありき」で世の中を眺めてみると、実はそこに喜びがあることに気付けるかと思います。
それらは気付かなければ喜びではありませんが、感謝の心によって発見できれば心の中に喜びが生じるのだから、「感謝をするから喜びが生まれる」と言ってもきっと過言ではないでしょう。
私はそんな風に思っています。
結言
まあ、なんだかアニミズムめいたふわふわした話にはなりましたが、「いただきます」の意味を理解できる日本人であれば様々なヒト・モノ・コトへの感謝の念を持っている人も多そうですし、何はともあれ感謝は素敵な行為だと思います。
強制することは決してしませんが、感謝をプラスアルファの行為だと捉えることができれば損は無いはずです。