忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

暴力を恣意的に運用することの副作用

 

「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」

 

 ある種のネットミームとして定着している言葉ですが、以前にも述べたことがあるようにこのような発想はあまり私の好みではありません。これは露悪的に言えば犯罪者の発想に似たものであり、自己中心的で自己満足的な思想に他ならないためです。

 

 誰かが何かを失敗した時、その際に外野の人間がその誰かへ石を投げるかのように攻撃をすることがあります。その失敗は悪であり、それを責めることは正義であるという理屈を持ってです。SNSでの炎上などは代表的なものでしょう。あいつは悪人だから石を投げていいんだ、いや、石を投げることこそが正しいんだ、という考えに基づいた行動は日々各所で散見できるかと思います。

 しかしながら理屈があれば何をしてもいいわけではありません。理屈という虚飾を取り払ってしまえばそこには人に石を投げるが如き行為が残るだけです。それは決して善と呼べる行為ではなく、むしろ悪行と呼ばれるべきものです。私には理解できませんがそれこそ通り魔の犯人にも犯人なりの理屈があるのでしょう。しかし如何な理屈を保有していたとしても犯人の行動が正当化されるものではないように、勝手な理屈で悪行を正当化するような振舞いは通り魔の犯人と同レベルに堕ちてしまいかねないものです。

類似の意見として「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ」のようなものがありますが、これにも私は納得がいきません。そもそも撃つなと。覚悟したと勝手に自己完結すれば人に危害を加えてもいいというのは道理が通らないでしょう。それこそ言ってしまえば通り魔事件の犯人だって犯人なりの覚悟は決まっているわけで、それを正当化しかねない発想は私の好みではありません。

理屈があろうがそれは行動を正当化するものではない - 忘れん坊の外部記憶域

 

 今回はこの続きとして、暴力の引き起こす影響に関して述べていきます。

 

暴力の意味する幅

 かつて暴力とされる範囲は物理的な破壊力に限定されていましたが、現代では罵言や誹謗中傷、同調圧力や経済的支配なども含意するように言葉の幅が変化しています。

 強制力を持って他者へ望まない行動変容を図る行為は全て暴力です。

 例えば欧州でよく見られるような環境団体による道路封鎖や美術品の汚損なども、彼らは非暴力活動と謳っているものの現代の定義からすれば明確に暴力だと言えます。

 

暴力を恣意的に運用することの副作用

 悲しく厳しい現実ですが、他者の行動を変える点において暴力はお手軽で容易です。話し合いと比べれば短期かつ安価に他者の行動を変えることができます。

 また互いの事情を斟酌して妥協なり譲歩を図る必要のある話し合いとは違い、暴力は勝者の総取りであり、勝ちさえすれば極めて効果的に望んだ結果を得ることが可能です。

 

 そんなお手軽で効果的な暴力が何故社会では禁止されているか。

 それはとても単純に、暴力によって他者を変容し世界の変革を成し遂げようとすることには必ず副作用を伴うことが歴史の教訓から分かっているためです。

 

 誰しも痛い思いをすることは好まず、暴力全般を不適切な行為だとする社会規範はなにも現代社会に限らず遥か昔から存在しています。

 そのような社会規範に従わず何かしらの理由をつけて暴力を振るう人間は、必ずその暴力を恣意的に運用するようになります

 いえ、そのような人はすでに恣意的に運用しています。相手に問題があろうとも悪人であろうとも暴力を振るっている事実に変わりはなく、暴力はいけないという社会規範を自らの判断で破っている以上、暴力の恣意的運用に他なりません。

 多数の人々の意志である社会規範に従わず暴力を振るう線引きを自らの価値基準に基づいて行うことは少数による多数の支配と類似するものであり、すなわち暴力の恣意的運用は必然的に独裁や専制における暴君と成り果てざるを得ません

 そしてそのような暴君を打倒できるのはより強大な暴力だけです。結果として、暴力の恣意的な運用が許されるような社会では暴力の連鎖が止まらなくなります。それは多くの人にとって望ましくない結果でしょう。

 だからこそ、たとえ目先の問題解決や目的達成に即効性があり効果的だとしても暴力のトリガーを引くことは避けたほうがよいとした理解が広まり、現代社会では暴力の全般的な禁止が是とされています。

 

結言

 何かしらの理由をつけて暴力を恣意的に運用する行為は、社会を不安定化させて暴力の連鎖を生み出す副作用を持ちます。

 だからこそ現代の民主主義社会では暴力が否定されており、安易に暴力へ頼ってはいけないことを留意する必要があると私は考えます。