忘れん坊の外部記憶域

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公私の区分を明確にする:正義の"押し付け方"の是非

 人それぞれどのような主義主張を持つかは自由ですが、それを社会全体の新たな規範としたいのであれば自身の主張を他者に伝達し他者の主義主張へ干渉する必要があります。

 もっと抽象度を下げて言えば、自身の信じる正義を社会の倫理規範とするには、他者の正義を変容する必要があります。

 

 よって社会運動が構造的に押し付けの性質を持つことはやむを得ないものです。押し付け無しに社会運動は成立し得ません。

 そんな社会運動の活動、社会正義の押し付けに関して思うところを述べていきます。

 

主張をするのは自由だが、それが過激であってよい免罪符とはならない

 社会運動は本質的に他者へ自身の主義主張を押し付けなければ成立しません。それは否定できることではなく、人には他者へ意見を述べる自由がある以上、当然許容されることです。

 しかし同時に、人には他人の意見を聞かない自由も持っており、それもまた互いに尊重し合うべき自由でしょう。

 

 よって社会運動家は二通りの押し付け方を迫られることになります。

 一つは穏当な方法、すなわち自らの主義主張を高らかに語り、「他人の意見を聞かない自由」を行使する人以外に働きかける方法。

 もう一つは暴力的な方法、「他人の意見を聞かない自由」を行使する人々の首根っこを掴み、目を見開かせ、時には排除することによって主義主張を通そうと働きかける方法。

 

 ただ、ここで忘れてはいけないのは、「社会運動は他者へ意見を押し付けること」であるのと同時に、「それを暴力的・強引に行ってもよい」免罪符が与えられているわけではないことです。

 互いの人権を尊重し合うことこそが現代社会において求められているベースの規範意識であり、新たな規範意識を上部へ構築する際にベースとなる規範意識を崩壊しても良いということにはなりません。これを許してしまっては、他者を力で支配できる最も暴力的な人の意見が規範意識を独占して支配していた中世古代の倫理観へ逆戻りしかねません。

 そのため、私は暴力的な社会運動は基本的に好ましいものだとは考えていません。

 

社会はこうあるべきだという欲求の公私

 社会運動における主張の源泉は「社会はこうあるべき」だという良心から来る社会正義への欲求だと考えています。

 ただ、私はローティ的なアイロニストのため、あまりこのような考え方には賛同できません。すなわち、自らが今現在所有している良心や信念は偶然と環境によって与えられたものであり、それが他者の所有する良心や信念に優越するものではないと考えています。同様に、他者が持つ良心や信念にも偶然性があり、私の所有するそれに優越するものでもありません。

 そういった互いの偶然性に基づく良心や信念を押し付け合うことには本質的に意味が無く、あくまで私的(プライベート)の範囲内で管理するものだと思っています。

 つまり、「社会はこうあるべきだ」「社会ではこう振る舞わなければならない」といった意見は一見して公的(パブリック)な欲求に思えるものですが、個人の考えるその「こうあるべき社会」というのは他者に優越するものではなく、それは突き詰めていくと私的(プライベート)な欲求に過ぎないものです。

 

結言

 公私を混同し、まるで公的な欲求である風に見せかけた私的な欲求を過剰に押し出して他者を変革しようとするのではなく、適宜状況に応じて他者へ意見を伝達し、穏当に物事を変革していく方向性のほうが私は好みです。

 もちろんこの手の意見がニヒリスティックだと捉えられるのは分かります。実際、ローティの考えるアイロニストの思想には様々な批判が為されていることも事実です。

 ただ、シュクラーが述べるような、寛容さの源泉として「残酷さこそ我々の為しうるなかでもっとも悪いことだ」「世の中における残酷さと苦痛を最小にすべき」と主張する人々をリベラリストと呼ぶのであれば、私はリベラリストでありたいし、闘技的民主主義はあまり好みではない、ただそれだけです。

 もっと言えば、「馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ませることはできない」ものであり、馬の頭を掴んで水辺に突っ込むようなやり方はただただ趣味ではない、そう考えています。