忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「個人の感想」の公共性と責任

 

 SNSでは時々次のような言説をみかけることがあります。

 「これは批判ではなく個人の感想です」

 「感想を述べることも許されないのか」

 これらに対する反対言論をあまり見かけたことがないので、私の見解をまとめてみましょう。

 

 少し厳しめな視点です。

 

言論と公共の関係性

 基本的に、人には表現の自由がありますので個人の感想は自由です。個人の感想を抑制することは望ましくありません。

 

 ただ、とても当たり前の話ですが、言説は公共性によって意味合いを変えます

 例えば「上司がマジでムカつく!」とした感想を述べる権利はもちろん誰にでもありますが、それを自宅で家族に対して愚痴るか、上司の目の前で言うかでは意味合いが異なるでしょう。

 情報発信は「誰に向けて、どのような文脈で言うか」が付属するものであり、それらが他者に影響を与える場合はそれに対する責任が発生します。

 もっとシンプルに言えば、発言は自由だが、それに対して生じる責任は引き受けなければならない、それだけの話です。

 

 そして残念ながらSNSは人類社会が持っている中でも最高峰の公共性を持っています。家庭や居酒屋、サークル内や駅の構内で話すなんて程度のものではなく、言語の壁すら超えて世界中に発信されるスーパーな拡声器です。

 よってSNSでの個人の感想は個人の範囲では留まらず、強制的に強烈な公共性を帯びることになります。そしてそれに対する責任を発信者は負うことが必要です。

 

SNSに毒されている

 個人の言説に対する責任論に対しては、「個人の感想すらつぶやけないのは窮屈過ぎる」といった自由主義的見地からの反論があるかもしれません。

 私も基本的には自由主義者ですので言い分は理解できますが、同意はしかねます。個人が発言の責任を取らない社会はさすがに自由の度を越して無法地帯過ぎるだろうと思うためです。

 

 ちょっときつい言い方になってしまいますが、独り言の感想を言いたいのであれば、人目に触れない鍵アカや、家庭や居酒屋などでの小集団で、或いはそれこそ紙の日記にでも書いていればいいのであって、別にSNSで世界中に発信する必要はないでしょう。

 SNSで個人の感想を気軽に述べられないことが窮屈と言っても、そもそも世の中は窮屈なものです。誰しも好き勝手に放言できるわけではなく、公共の場においてTPOを弁えた発言をすることは自然と求められます。子どもですら長ったらしい校長先生の朝礼に直接文句を言うことを我慢するように、発言の公共性と責任は窮屈であろうとも誰しも配慮しなければなりません。

 つまり、SNSが格段窮屈なわけでもなく、むしろ社会の延長線として妥当です。

 わざわざ世間の目に触れる形で個人の感想を発信する動機と言えば「自己主張」や「共感の収集」、「批評家としての役割獲得」や「場への参加」など、要約してしまえば俗に言う承認欲求以外の何物でもありません。欲求を満たすために自儘な放言をすることは批判されても仕方がないでしょう。

 「SNSは好き勝手自由な発言が許される」「承認欲求ドライブしてもいい」と考えるのはSNSに毒されていますので、少し距離を置いたほうがいいと思います。

 

結言

 自由とは無責任であることを意味する状態ではなく、むしろ責任を負うことが自由です。自らの言動に対して責任を負うからこそ自由が許容されます。

 個人の感想も同様、それに対する責任を負うならば自由に発信して良いでしょう。世界中の数十億人に対する影響の責任を個人がどの程度負えるかは、なんとも難しいところですが。