本当に時々ではありますが、「検閲とは公権力が主体となって行うものであり、民間機関や個人が行うものは検閲ではない」とした言説を見かけることがあります。
これがどうにも気になります。
それは一種の責任逃れになっていないでしょうか。
検閲の定義
たしかに狭義の意味での「検閲」は「公権力が書籍・新聞・雑誌・映画・放送や信書などの表現内容を強制的に調べること」を意味しており、民間機関や個人が行うものは検閲とは認定されません。実際に最高裁判所は検閲を行政機関が行うものに限定すると判断しています。
ただ、それは日本語の定義云々で言葉遊びをしているような行為に過ぎないと思っています。
Human rights(人権)の一つであるFreedom of speech(言論の自由)やFreedom of expression(表現の自由)を阻害する可能性のあるCensorship(検閲)は政府のような公権力に限らず民間機関やその他団体によっても実施されると定義されます。宗教団体が出版物に差し止めを求めることも、教育団体が恣意的に学生へ情報を遮断することも、行政によるものと同様にCensorship(検閲)です。
言語が違えば人権の範囲も変わる、と考えるのはあまり適切ではないでしょう。たとえ日本語の検閲が指す範囲が違うとしても、他者の人権を阻害しかねないCensorship(検閲)は誰でも行い得るとした認識は必要かと考えます。
検閲の是非と権利
検閲の違法性は明確に線引きされており、公権力が行う検閲は違法です。対して民間機関やその他団体が行う検閲は違法ではありません。
例えば出版社は不適切だと判断する書籍を出版しない自由を保有していますし、図書館は自らの責任において作成した収集方針に基づいて資料を選択する自由を保有しています。また各種団体や個人は他者の言論や表現を批判したり出版の差し止めを求める権利を保有しています。これらは違法ではなく適法です。
ただ、違法でなければ何をしてもいいとは限りません。権利とは双方が持っているものであり、片方が広義の検閲をする権利を持っているのと同様に片方は言論や表現の自由を持っている以上、双方の権利を俎上に載せて公益性や公共性に基づいて調整する必要があります。
「検閲とは公権力が主体となって行うものであり、民間機関や個人が行うものは検閲ではない」はこの権利の調整を避ける、ある種ズルい言説だと思っています。
何故ならばこの言葉の背景には「これは違法な検閲ではないから自由であり、議論の余地はない」とする無責任さが存在しているためです。
違法ではないから何をしてもいいとばかりに他者の言論や表現の自由を阻害しても無責任に議論自体から避けるための言い逃げの道具として用いられている、そう思えます。
しかし実際には違法でなくとも人権の衝突は生じています。公権力以外が検閲をする権利があるのと同様に人々には言論や表現の自由があるためです。よって検閲行為は違法でなくともその行使には議論の余地があります。
結言
公権力の検閲は違法ですが、それ以外の検閲は違法ではありません。
しかしそれは違法ではありませんがCensorship(検閲)ではあります。
公権力とは異なり民間機関やその他団体及び個人には検閲をする権利があり、その権利は他者の言論や表現の自由に必ずしも勝るものではありません。
少し厳しいことを言えば、検閲は違法ではないから問題ないとした理屈は検閲をしたい相手の言論や表現も適法の範囲であれば無制限に許可することを認めなければ筋が通りません。人権とは片側だけが無制限に許容されるものではなく、状況に応じて議論を行いそれぞれの権利の調整を図る必要があります。
以上より、「検閲とは公権力が主体となって行うものであり、民間機関や個人が行うものは検閲ではない」とした言説は、権利の調整を回避して自らの権利を強引に押し通そうとする所作に見えるため、あまり好みではありません。