忘れん坊の外部記憶域

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「お気持ち」と”裕福な”インターネット

 インターネット上でよく議論となっているテーマの一つに個人の感情の取り扱いがあります。何らかの事象に対しての個人的な感想を公開することの是非に関する問題で、インターネットスラングで言えば「お気持ち」と揶揄されるものです。

 今回はそんな個人の感情について、お気持ちが論争を生んでいる個別事例については取り上げず、もう少し俯瞰的な点について述べていきたいと思います。

 

個人の感情は抑圧されてきた

 現代の自由主義的価値観を重んじる国家や集団において、個人の内心は自由です。嫌いなものを嫌いと思うことも、気に入らないものを気に入らないと思うことも許されます。

 近現代の自由で民主的な集団が構築される以前の社会では、個人の感情は全てではないものの抑圧の対象でした。やりたい仕事をやる職業選択の自由や好きなところに住む移動の自由など感情に起因する自由が許容されておらず、個人の内心よりも王様の意向や村の掟のような社会集団の意思が優先されるものでした。

 人権や自由主義はそういった抑圧からの解放を果たした点で貴重な人類の財産だと考えます。個人の内心を国家や集団が抑圧しようとすることは専制主義や閉鎖的コミュニティへの回帰にほかならず、それを好む人がいることも重々承知ではあるものの、やはり自由主義国家においては批判の対象となるでしょう。

 

抑圧の理由

 個人の感情が抑圧されていた理由は様々な側面から説明出来るかと思いますが、政治や思想の側面よりも”裕福さ”で説明することが一番腑に落ちやすいかと思います。

 それはつまり、抑圧の原因は近現代に至るまで人類のコミュニティが裕福ではなかったためです。ほんの200年前の江戸時代ですら農民の比率は8割を超えており、大多数が食糧生産に従事しなければ人類社会を維持できなかった時代に個人の自由を萌芽させることは不可能に近かったでしょう。そのような社会では職業選択や移動などの自由を認めようがありません。

 近現代における様々な技術革新と生産性の向上によって人類が食糧生産へ従事しなければならない人数を削減できたおかげで、つまり全体が裕福になったことで自由へのコストを人々が支払えるようになった、そう考えることが妥当だと思います。

 

 ただ、逆に言えば個人の感情が抑圧されている状況には誰かの悪意や敵意が必ずしも必須ではなく、その集団としての合理性があることも事実です。

 これは都会と田舎を比較すれば分かりやすく、社会的分業が大規模に成立している豊かな都会では他者が何をしていようがどうでもいいことですが、社会資本に余剰が少ない田舎では個人の自由が制約される傾向を持ちます。それは田舎の人々が悪い人だからではなく、社会の維持に精一杯で個人に割けるリソースが不足しているだけです。

 社会構造を維持するための固定費は人が多ければ多いほど個人の支払う分担金は少なくなるため、都会のほうが豊かで自由になるのは自然なことだと言えます。

 

”裕福”なインターネット

 インターネットは極めて"裕福"な環境だと言えます。単純に現実社会よりも維持管理コストが安く、またロンドン・ニューヨーク・東京・上海のような世界最大の都会よりも遥かに多くの人々が参加しており、個々人が支払う管理費用が安価になっているためです。つまりインターネットでは自由に支払うコストが極めて安価であることが、インターネット上に個人の感情が溢れている理由の大部分を占めていると考えます。

 もちろんインターネットの匿名性もその理由として挙げられることが多いですが、個人的には主因ではないと思っています。なにせ各所のコメント欄やSNSを見ても分かるように、実名でも非匿名でも暴言に近い感情を投稿する人は多数居ますので。

 

ラインを引く

 個人の感情が抑圧されてきた時代や地域を考えれば、インターネット上で個人が自由に感情を吐露できるようになったことは進歩であると言えそうです。

 ただ、抑圧から解放されてインターネット上で飛び交っている様々な感情は時に衝突を起こしています。「お気持ち」はその衝突に至った感情を揶揄する皮肉表現です。

 その衝突は社会問題化しつつありますが、かといって衝突を抑制するために個人の感情を抑圧することは進歩を放棄して中世へと回帰する道になりかねません。そしてもちろん無制限な自由を認めることも無限の衝突を引き起こすことから現実的ではありません。

 よってその他各種の権利や自由と同様に、権利と自由の衝突が生じた際の判定基準、ラインの設定が今後はより厳密に必要になっていくものと考えます。

 

 ラインの設定は社会的な合意が不可欠ではあるものの、個人的には次の辺りが妥当かと考えています。

  • 「お気持ち」を表明すること自体は自由として許容
  • 「お気持ち」で他者を殴るのはライン越え
  • ラインはこの二つの間のどこかに引き、フィードバックループで可変的に修正する

 特に面白みもない意見ですが、社会規範が可変である以上、同様に日々の議論によって許容範囲を調整していくしかないと思います。

 感情の公開は基本自由であり阻害されるべきではないものの、ラインを越えて他者に土足で踏み入るならば無数の他者に土足で侵入されるリスクをも引き受けなければいけない、「私はいいけど貴方たちはダメ」は許されない、そういったものとして線引きして取り扱うのが妥当かと。

 

結言

 むやみやたらに人の感情を「お気持ち」と揶揄する風潮はあまり好ましいとは思わないものの、かといって個人の感情で人を殴ることが許容されるべきだとも思わないので、0-1ではなくその間のどこかに線引きを出来たらいいなと思っています。