怱々たる状況が原初的な防衛反応を引き起こし正常な判断力を麻痺させている懸念があるため、静穏なる儀について表白したきところです。言い換えれば、仕事が忙しくて少し怒りっぽくなっているため、軽いテーマを選んで記事を書きたい気持ちです。
持って回った言い回しをしているのは、頭を冷やすためです。
ちなみに仕事が忙しいのは困っている人の仕事を肩代わりした私のサービス精神、お人好しが原因であり、純度100%の自己責任です。外部に怒りを発露するような話ではなく、私の個人的な趣味嗜好に他なりません。
さらに言えば、怒りの原因はただ忙しくて精神的な余裕が減っていることであり、何に怒っているかといえば何に対しても怒っていないのですから、何かに当たる必要すらありません。
もちろん精神的な余裕が無い時に怒りが生じるのは人間である以上、やむを得ないことです。そういう時は怒って解消するのではなく、根本原因を解消すればいいだけです。そうすれば怒りは発散されます。
今回であれば、忙しさが原因なのだから黙ってちゃっちゃと仕事をするだけです。
とはいえ、このような心境の時に時事ネタや意見の割れるややこしい問題などを取り上げるのは個人的によくないです。何に対しても怒ってはいないものの怒り自体は存在しているため、的外れなことを八つ当たり的に放言してしまいかねません。こういう時は何か緩いテーマでお茶を濁すのが一番でしょう。
そんな流れで、今日のテーマは「公的な怒り」です。
・・・緩いかな?
私憤と公憤
怒り、憤りには大別すると二種類、プライベートな怒りである私憤とパブリックな怒りである公憤があります。
アンガーマネジメントや心理学で取り扱われる怒りは多くの場合で私憤に属するものですが、今回は公憤に関して考えてみます。
パブリックな怒りである公憤とは社会悪に対して感じる憤りであり、誰かの不祥事、やらかし、悪事など社会的に悪であるとされる事柄に対して、直接的には自身の利害に関わらない状況において生じる憤りです。
私個人の趣味としては怒りを発露して人様に影響を与えることは好まないものの、他者の怒りを否定するわけでもありません。
特に公憤は社会正義を実現するためには必要不可欠なものであり、当事者ではない無関係な多数の人の声が無ければ世の中に悪がのさばることになってしまいます。
よって公憤の存在自体を否定する理屈は持ち合わせていません。
しかしながら、少し話をややこしくしてしまうのが私憤と公憤の峻別です。
その怒りの原因がどこにあるかを認識するのは存外に難しく、人はつい自らの私的な怒りに対して公的な理由付けのラベルを貼り付けてしまいがちなものです。私の個人的な思想信条はリベラル・アイロニスト寄りであり、公憤が真に公的であるかは常々議論の余地が残ると思っています。
社会運動における主張の源泉は「社会はこうあるべき」だという良心から来る社会正義への欲求だと考えています。
ただ、私はローティ的なアイロニストのため、あまりこのような考え方には賛同できません。すなわち、自らが今現在所有している良心や信念は偶然と環境によって与えられたものであり、それが他者の所有する良心や信念に優越するものではないと考えています。同様に、他者が持つ良心や信念にも偶然性があり、私の所有するそれに優越するものでもありません。
そういった互いの偶然性に基づく良心や信念を押し付け合うことには本質的に意味が無く、あくまで私的(プライベート)の範囲内で管理するものだと思っています。
つまり、「社会はこうあるべきだ」「社会ではこう振る舞わなければならない」といった意見は一見して公的(パブリック)な欲求に思えるものですが、個人の考えるその「こうあるべき社会」というのは他者に優越するものではなく、それは突き詰めていくと私的(プライベート)な欲求に過ぎないものです。
とても極論ではありますが、社会に悪はあってはならないと考えるその発想自体が私的な欲求であるとすら言えます。
結言
もちろんこの考え方は極めてニヒリスティックです。実際問題として社会悪は存在しており、皆がこのような考えをしていては社会に悪がのさばるばかりです。だからこそ私は他者の公憤、他者の怒りを否定するつもりはありません。
「私憤を公憤にすり替えるべきではない」とする私の意見も、やはり同様に私的な欲求に過ぎないのですから。