政治や思想などイデオロギーに関連する論争にて、対立する側にいる相手が過失や悪事をしでかした場合は暴力的な言葉をもって叩いてもいい、そういった傾向を持った人がSNS上などで観測することができます。政敵や論敵のやらかしを悪しざまに罵る人はあちらこちらの論争で見かけることができるでしょう。
当ブログでも度々述べてきたように、私はそれが良いことだとはあまり思っていません。たとえ相手が悪事を働いた悪人だとしても、それに相対している側が自動的に正義の立場に立つわけでもなく、また正義であれば言葉の暴力が許可されているわけでもないためです。
今回は少し厳しい視点で、否定的な理由を整理していきます。
倫理観の恣意的な運用は狡い
世の中には「悪いことをした人は叩いてもいい」と考える人や、あまつさえ「悪いことをした人は叩かなければならない」と考える人がいらっしゃいます。
それは主に公憤や義憤を原動力としたものであり、社会正義のためには必要な精神性です。
ただ、公憤や義憤に駆られることと他者に言葉の暴力を振るうことは別の問題です。幼児ではないのですから、怒りのままに暴力を振るうようなことは成熟した人間のすべき行いでは決してありません。
社会悪に対して腹を立てることはとても立派なことですが、しかしそれが暴力を振るう免罪符にはならず、その暴力性は尊い公憤や義憤の御旗を傷つけることになりかねないことを重々留意しておく必要があります。
また、現代社会における倫理観の基本は暴力の否定です。個人が他者に物理的暴力を振るうことも精神的暴力を振るうことも全面的に許可されていません。
それに反して「悪いことをした人は叩いてもいい」「悪いことをした人は叩かなければならない」と考えることはどの範囲でならば暴力を振るっていいかの基準を勝手に変更してしまっています。言ってしまえば倫理観の恣意的運用です。
勝手に暴力を振るう閾値を変更することで自身の暴力性を免責して一方的に他者を攻撃する、これは率直に言えば卑怯者に他なりません。
そのように倫理観を恣意的運用することは不適切です。当然ながら社会的な倫理観との齟齬が生じることから正義感の暴走のような問題自体が生じることになります。
相手が善人であろうと悪人であろうと叩いてはいけません。「悪人ならOK」なんて条件を勝手に付けて自分の暴力に対する責任を回避することは駄目です。
そんなの、やっていることは「お前のためを思って」とかなんとかほざきながら家庭内暴力を振うようなロクデナシと同じです。
被害者を無意識に利用している
さらに厳しい話になりますが、「悪いことをした人は叩いてもいい」「悪いことをした人は叩かなければならない」とした考え方は加害者に対して辛辣ですが、被害者に対しても悪辣です。
一見すれば加害者と敵対することで被害者に寄り添っているように見えますが、被害者の救済は”被害によって生じた損失の補填”によって為されるものであり、”加害側の撲滅”は必須要件ではありません。個人間での復讐心ならばまだしも、組織的・社会的な被害は加害側が特定の個人とはならないことから加害側の撲滅が被害者の救済に繋がらないことは多々あります。
つまり、被害者の苦しみに手を差し伸べることこそが寄り添う行為であり、「悪いことをした人は叩いてもいい」「悪いことをした人は叩かなければならない」と加害者を害そうとする行為は寄り添ってるとは言い難いものです。
むしろ率直に言ってしまえば、加害者を攻撃しようとする人は被害者の苦しみを自身の主張の糧としたり、怒りのままに行動することで自らのストレス解消の道具としているだけに過ぎません。自覚していようといまいと、被害者を利用しているという点で悪辣だと言えます。
結言
公憤や義憤は社会に必要な感情です。それを持てることは立派なことだと言えます。
ただ、公憤や義憤に基づいた行動を取る際にはなにも暴力的な手段や言動を用いる必要はありません。怒りに身を任せて暴力を振るう行為は、少なくとも社会正義の側に立つべき人の取るべき行動ではないのですから。