「大義の為には犠牲はつきもの」
「目的の為には多少の犠牲は仕方がない」
物語に限らず現実でも稀に見掛ける定型句です。明白に言葉にしないまでも行動や態度で示していたり、自らの目的を達成するためには犠牲はやむを得ないと内心で考える人は居ます。
人の内心はアイデンティティに関わる部分ですので、どのような信念であろうとそれを否定することはしません。
ただ、否定ではなく個人的な見解として提言するのですが、少なくとも少数派・マイノリティに寄り添うことを是として活動するのならばこれは悪手だと思うので、やめておいた方がいいかと思います。
Justice(正義/公正)
英語のJusticeは正義と訳されることが多いですが、他にも公正と訳すこともできます。すなわち欧米のJusticeとは不公正を正す行為です。
Justiceはアジアの”正義”とは厳密に言えば少し意味合いが異なります。アジアの正義は不義の反対であり人の道義や義理に背かないことを指すのに対して、JusticeはInjustice(不公正)の反対であり社会的にバランスが崩れた状態をジャスト(Just)な状態へ正す行為を指します。
例えば身分や人種、性別や生まれによって不利益を得ている人がその損失を取り戻して適切に社会へ参加できるようにすること、今後不利益が生じないように社会構造を変えることがJusticeです。もちろんこれはアジアの正義からしても道義に基づいた行動であり正義と評しても問題ないでしょう。
一般に社会とは多数派・マジョリティが適合しやすいような形態を持っているものであり、少数派・マジョリティは不利益を被ることが多くあります。
よって少数派・マイノリティに寄り添うことは正しくJustice(公正)な行為です。社会正義を立派に為していると言えます。
その犠牲者こそが少数派なのだ
少数派・マイノリティへの寄り添い方は様々あり、ラディカルな人の中には冒頭のような「目的の為には多少の犠牲は仕方がない」とした発想を持っている方もいらっしゃいます。「活動によって不利益を被る人が出たとしても少数派・マイノリティのためであればそれは許されることだ」としたやり方や思想で活動を行う人です。
ただ、これは明確に自己矛盾を生じてしまいます。多少の犠牲は仕方がないと切り捨てた、その犠牲者こそが少数派だからです。
社会における少数派・マイノリティとは最適効率のためにマジョリティに特化した社会から切り捨てられてしまった人々です。そのシステムから切り捨てられた人々へ寄り添うことを目的とするのであれば、同様に"少数"の犠牲者を許容すべきではありません。それを許容してしまっては少数派・マイノリティの再生産を行っているだけになってしまいます。
結言
社会運動には穏健な方法から過激な方法まで様々あります。対話を軸に進めることもあれば、法律を舞台に戦うこともあります。私はあまり好みではありませんが、ラディカルな暴力的手段を取る人がいることも同意はできないまでも理解はできます。
ただ、少数派・マイノリティに寄り添うことを是とした社会運動を行う活動家の方には、ラディカルで暴力的な方法、すなわち何らかの形で犠牲者が出るようなやり方は避けてもらいたいと思っています。
その犠牲者こそが少数派であり、不公正を正すために、そして社会正義を実現するために救い上げるべき人だからです。