忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

「多数派への配慮」論に関して思うところ

 社会的少数者、すなわちマイノリティに関連する言説ではその前提に「マイノリティはマジョリティよりも不利益を被っており、多数派への配慮を強いられている」とする考えがあります。

 これは否定しようがない事実でしょう。競争と適者生存を軸とする現実世界において社会集団は他の社会集団からの淘汰を避けるために相対的な優位を得る必要があり、それは多くの場合で公平性を犠牲にして全体的な合理性を追求する結果をもたらします。製造メーカーがラインナップを増やすことよりも画一的な製品を大量生産したほうがスケールメリットによってコストを抑えて市場を席捲できるようなものです。マジョリティを重視することは社会集団にとって自然な生存戦略であり、しかしそれがマイノリティに対する公平性に欠けていることは間違いありません。

 

 よって「マイノリティはマジョリティよりも不利益を被っており、多数派への配慮を強いられている」とした前提を否定するつもりは一切ありません。

 ただ、この前提を過激に適用した言説にはあまり同意できないと思っています。それは例えば「マジョリティは配慮を強いられていない」「マジョリティには配慮する必要がない」といった類のものです。

 

マジョリティは楽なのか

 相対的にマイノリティがマジョリティよりも不利益を被っていて配慮していることと、マジョリティに属する人が配慮と無縁で不利益が存在しないことはイコールではありません。

 例えば学校のイジメ、そこではいじめられている側が社会的少数者のマイノリティに該当します。最も不利益を被っているのはこのいじめられている人であることは間違いなく事実であり、その是正は絶対に必要です。

 ただ、マジョリティは二元論的に”マイノリティ以外”かと言えば、それもまた違うかと思います。

 実際のマジョリティは単一のものではなく、その内部構成はグラデーションです。イジメを例としても、積極的にイジメに加担する悪い人もいれば、仲良しグループからハブられないように必死に配慮して立ち回っている人もいます。

 繰り返しますが、相対的に見て最も不利益を被っているのはいじめられているマイノリティであることに疑いはありません。ただ、その相対化の視点をマジョリティにも適用されて然るべきだと考えています。「多数派への配慮」はマイノリティに限定されるものではなく、それを同調圧力として強いられているマジョリティがいることもまた事実でしょう。マクロな視点で見たマジョリティの特権性はミクロな個々人が必ずしも努力なしに甘受できる類のものではなく、人によっては必死に努力してしがみついた結果である場合も有り得るものです。

 そういったマジョリティの中にいるマイノリティ性を持った個人に配慮しないのは、マイノリティを不可視化して不利益を押し付けてきた社会と同じ仕草になりかねないのではないかと愚考します。

 

結言

 つまりマイノリティが不利益を被っていて多数派に配慮していることは事実ですが、マジョリティだから不利益はなく配慮も無縁だと考えるのは誤謬だと考えています。それはまさしく人によるものであり、マジョリティであるための不利益や配慮も人によっては間違いなく存在しています。

 だからこそ「もっと少数派へ配慮をすべき」には俄然同意するのですが「多数派への配慮は不要」とまで極言することにはあまり同意しかねます。一方的な配慮の要求はそれこそ不利益とマイノリティの再生産にしかなりません。

 必要なのは軽重を考慮した相互の配慮と双方向の敬意ではないかと、個人的には愚考しています。