時々ですが、差別に関する議論で次のような言説を見かけることがあります。
「差別とはマジョリティ(多数派)からマイノリティ(少数派)へ行うものであり、マジョリティに対して行われる言動は差別にはならない」
「差別を受けるのは常にマイノリティであり、差別だと批判する権利はマイノリティのみが持っている」
『朝田理論』の発展形かなと思いつつも、今一つ理屈が納得できないので反対意見を並べてみます。
差別と属性集団の大小は関係ない
まず、国連による差別の定義は以下の通りです。
Discrimination is any unfair treatment or arbitrary distinction based on a person’s race, sex, religion, nationality, ethnic origin, sexual orientation, disability, age, language, social origin or other status.
差別とは、人種、性別、宗教、国籍、民族、性的指向、障害、年齢、言語、社会的身分などに基づく不当な扱いや恣意的な区別のことである。
https://www.un.org/womenwatch/uncoordination/antiharassment.html
この定義に基づけば、マジョリティであるかマイノリティであるかは差別とは無関係です。もちろん不当な扱い自体はマイノリティのほうが受けやすい以上、多くの差別はマイノリティが受けるものではありますが、マジョリティであっても差別を受ける側となり得ます。
「マイノリティは不利益を被っている、だから多数派を差別と批判する行為は一種の積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)として正当化される」とする意見も見かけましたが、アファーマティブ・アクション自体が本場のアメリカで平等保護条項に反すると違憲判決が出る程度にその是非が議論の対象となっており、必ずしも絶対的に正しい論拠とはなりません。
そもそも多数派と少数派をどう線引きするのでしょうか。
例えばある学校で白人の子どもが黒人の子どもを差別したとして、そのクラスでは黒人が少数派で、その学校では白人が少数派で、その学区では、その地域では、その州では、その国では、世界では、と広げていくとどの領域を選択すべきかは明確に定めることができず、線引きは自論に都合が良い恣意的なところで引くしかなくなります。それはまったくもって公正な判定ではありません。
もっと極論な話をすれば、日本は男性よりも女性のほうが多い国です。だから日本では女性が多数派であり何を言っても許されるしそれは差別ではない、なんて理屈は当然成り立たないでしょう。
このように無茶苦茶で恣意的な線引きができてしまう以上、多数派と少数派に絡めて差別か否かを判別する論理は誤った理屈だと考えます。
あえて極端な事例をあげるとすれば独裁国家が分かりやすいでしょう。多数派である被支配者たちは少数派の支配者たちから著しい不利益を受けています。これは実にシンプルな多数派への差別の事例だと言えます。
権威勾配(権力勾配)論の不安定
単純な多数派・少数派で区切れないことが分かると、恐らく社会的な権限の大小、権威勾配(権力勾配)論に話は進むと思われます。
すなわち「マイノリティとは単純な数の大小ではなくパワーの大小であり、差別と批判する権利は権限の弱いものに対して与えられるアファーマティブ・アクションの一種である」といったような理屈です。
これもある種の説得力があるように思えますが、必ずしも絶対ではありません。
何故ならば権威や権力は不動のものではないためです。
極端な話、政治家や経営者が何か悪事なり失態なりをやらかして職を追われて権力のパワーバランスが崩れた場合、そういった人への批判は差別になるのでしょうか。
なにせ職を追われた人の立場は権威者でも権力者でもなくなります。つまりは弱者側です。そうなった瞬間にアファーマティブ・アクションが適用されてやらかした側が無制限に批判者を差別主義者と攻撃できるようになる、なんてことはないでしょう。
そう考えるとパワーの差に基づいた判別も結局のところ多数派・少数派と同様に自論へ都合の良い恣意的な線引きができる道具に他ならず、公正な決め方とは言えません。
権威や権力が不動のものではなく変化し得るものである以上、私たちは差別の定義に立ち返り、どのような人であっても『人種、性別、宗教、国籍、民族、性的指向、障害、年齢、言語、社会的身分などに基づく不当な扱いや恣意的な区別』をしてはいけないと考えることが適切です。
相手は権力者だから、相手のほうが強いからと差別かどうかを相手によって判断する行為こそが恣意的な区別に他ならず、それこそが差別なのだと肝に銘じる必要があります。
結言
つまるところ、片一方を反論を受け付けない無謬で無敵の存在と定義するような線引きの仕方は公正ではありません。
人権とは双方が同様に保有しているものであり、その権利への侵害行為や行使の過不足があれば調整によってジャスト(just)にすること、損失を受けた人には適量を補填して他者の権利を奪った人からは適量を取り戻すことが正義・公正(justice)です。権利の綱引きができる状態でなければ双方の人権は守れません。
よって「マジョリティへの批判は無制限に許される」「権威者には何を言っても問題ない」と片一方の人権を無視するような理屈は正義・公正に反しており、公正の観点からすれば多数派に対する差別は成立し得ると私は考えます。