多様性と公平性は、存外に難しい。
非現実的な理念
近年の社会的なフレームワークの一つにDEIがあります。
これはDiversity, Equity, Inclusionの略で、日本語にすると多様性・公平性・包括性で、これらの考え方を重視するフレームワークです。
個人的な見解として、方向性としては同意できる望ましい理念ですが各論はもっと詰めないといけないと思っています。様々なアイデンティティを尊重する多様性に対して、何をどう線引きして公平性を生み出すかが非常に恣意的とならざるを得ないことは大きな課題でしょう。少なくともこの矛盾を解消しなければ公平性が担保されません。
例えばDEIフレークワークにおける公平性では「歴史的に不利な立場にあったグループに意思決定権限を与える」「個人の固有の状況を考慮し、それに応じて待遇を調整して、最終結果が平等になるようにする」ことが含まれています。
結果の平等、それ自体がすでに難しいことですが、さらには多様性を識別する際のグルーピングが結果の平等を邪魔せざるを得ません。
それこそ、不利な立場をどう定義するのか、それぞれのグループに対してどうパワーの差を評定して差異を付けるのか、永続化した場合はただの逆差別となるのでどのグループにどの程度のパワーを与えてそのエンパワーメントをいつまで続けるかを設定できるのか、そういった細部を詰めようとしたとしても現実的な最適化は困難でしょう。
少し嫌味ったらしい意見となってしまいますが、多様性の代表例として挙げられている『ジェンダー、民族性、性的指向、障害、年齢、文化、社会階級、宗教』に則り、「男性・少数民族・異性愛・発達障害有り・若年・特権階級・宗教的少数派」の人と、「女性・民族的多数派・同性愛・障害無し・高齢・労働階級・多数派宗教」の人と、などなど様々な特性を持つ人を並べていった場合、どのようにエンパワーメントの差をつけるかを平等に判断できる人はいませんし、判断は必然的に恣意的なものとならざるを得ません。
要するに多様性のグルーピングは発信力の観点からすれば意味のあることですが、実際の個人は単一特性ではない以上、現実的な解とはなり得ません。グルーピングで押し切ろうとしてはネットスラングにある「ポリコレバトル」のような事態になってしまうだけです。最終的にアイデンティティによる多様性の区分は完全に個人にまで分割されなければ機能しないため、あまり効果的とは言い難いものでしょう。
かといって、個人の範囲で行使できるパワーで結果の平等を実現することは当然できませんし、それができないからこそ求められているのが大枠としてのDEIです。
よってDEIを実際に実現するためには統治権力による再分配、すなわち個人の自由を完全に束縛し全てのパワーを統治者が取り上げて公平に再分配する他ないのですが、そういった社会主義的手法が上手くいった事例も残念ながらありません。
つまるところ、DEIは実際としてはマルクス主義のリフレームであり、ラベルは変わったものの過去にうまく行かなかった手法の焼き直しと言えます。
そのため、このフレームワークはそこまで社会にとって良い結果を生み出せるかどうかは少し疑問です。理念は素晴らしいものなのですから、変えるべきはラベルではなく手法ではないかと愚考します。
結言
理念が失敗することはありません。理念を実現するための手段が誤っており失敗することはありますが、それでも理念は傷つかず清浄なままです。
理念を清浄に保つことが目的であれば失敗を続けることにも意味があるのでしょうが、理念を実現を目的とするのであれば手段を変えなければなりません。
「神は細部に宿る」と言われるように、大枠の筋が正しければ細部は気にせず突き進んでいいと考えるのはあまり適切ではありません。むしろ細部こそ丁寧に、現実的な部分こそをしっかりと積み上げていかなければその理念を実現することはできません。マクロな理念を通すのであれば、むしろミクロな現実へ目を向けて手段の微調整を図る必要があります。