感情論。
定義としては『理性によってではなく感情によってなされる議論』を意味する言葉であり、多くの場合は否定的な意味合いで用いられると思います。
そんな感情論に関して、私も基本的には否定的なポジションです。人の感情を否定しているわけではなく、ただ、感情論は公平さに欠けており弱者に優しくないと考えるためです。個人的な感情ではありますが、弱者に優しい世界のほうが好みです。
「理性」を用いるべきだと求めているのは「感情」
感情論の対義語を明確に定義することは難しいですが、概ね「理性的」「論理的」あたりが対角にくると考えられているでしょう。
ただ、『言説や議論は理性的/論理的であるべきだ』とする根底はどこにあるかと言えば、それは感情です。その根底に存在する公理は「理性的であるべきだ」「論理的であって欲しい」と望む感情的な願望に他ならず、理性的/論理的であることが絶対唯一の自然法則と言うわけではありません。極言ですが、この世で人が定める全ては感情論だとすら言えます。
つまり「理性的」「論理的」とは感情論と絶対的に対立する概念ではなく、理性的/論理的とは言うなれば感情にオブラートを被せて抑制的に覆い隠した状態を指します。
感情論を抑制することの利点
とはいえ、全てが感情に起因するからといって剥き出しの感情を露呈して他者に強要することは理想的ではありません。
感情にオブラートを被せた理性や論理を用いることは難しく、剥き出しの感情を用いることは容易いものです。
よって感情をもって自らの意を通そうとする感情論は弱者にとって使い勝手の良い道具のように思えるものです。
しかしそればかりでは無制限に感情の衝突が生じます。どれだけ感情が使い勝手がいい道具であっても、いえ、使い勝手がいい道具だからこそ誰かが振り回せば他の誰もが用いるようになります。
よって「私の感情に従え」が是とされる世界では無数の他者の「私の感情に従え」をも是とせざるを得ません。それはまさに『万人の万人に対する闘争』だと言えるでしょう。
「私はお前の感情を無視するがお前は私の感情に従え」が通せるのは極めて一握りの強者のみとなります。そのような自然状態での弱肉強食、適者生存、強者総取りの世界では極めて一握りの強者だけが自らの意を通してそれ以外の弱い大勢の人々は奪われる一方となるでしょう。
つまるところ、率直に言って感情論に頼ることは適切ではありません。
それは短期的には弱者であっても共感を勝ち取って利得を得られるものの、長期的には強者の感情論に押し潰される結果をもたらします。
なぜ人類社会が感情論ではなく理性的/論理的を是とするようになったかと言えば、そのような『万人の万人に対する闘争』を解消して可能な限りの公平性を実現しようとしてきたためであり、感情論よりも理性的/論理的を是とすることは弱者にとってむしろ有益です。
理性的/論理的であれば弱者でも自らの意を通せる社会は、少なくとも感情のぶつけ合いより公平であり、第三者が評定するとしても公正です。
もっと極端に言えば、感情の大きさで競い合う社会では、少数派は絶対に多数派へ屈さざるを得なくなります。多数派の「なんか感情的に嫌だ」が勝る世界が公平かと言えば、決してそうではないでしょう。
結言
偽善的ではありますが私は可能な限り多くの人に優しい公平で公正な世の中であったほうがいいと感情的に望んでいるため、感情論よりも理性的/論理的であることを是としたいと思っています。もちろんそうであれば完全な世界になるわけではないことは重々承知の上で。