難しい話ができないことを難しく話す。
語彙と思考力の関連性
何かを考える時でも英語で思考する条件付けをする程度にここしばらく本当に英語漬けのため、驚くほどに日々の思考力が低下しています。何か少し難しげなテーマを考える余裕も無く、そもそも私の英語力ではそれができません。哲学者のウィトゲンシュタインが述べる"The limits of my language mean the limits of my world."(私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する)は事実なのだと感じるばかりです。
私たちが物事を思考する際には必ず言語の力を用いています。私たちは自身の持つ言語で取り扱えない事柄を思考することはできません。言葉によって理念や概念に形を与えることで初めて私たちの思考の枠組みに収めることができます。
この言語とは必ずしも私たちが日常的に用いている日本語や英語といった個別言語に限らず、言葉として表せないノンバーバルな非言語コミュニケーションなども広義として含みます。言語とは音声や文字を用いて感情や思考などを伝達するために用いる記号体系及び行為を意味するものであり、例えば赤ん坊の泣き声も立派な言語活動です。
つまり、思考の幅はその個人が持つ語彙の量に依存すると言えます。多くの言葉を知っている人はそれだけ多くの理念や概念を取り扱うことが可能です。ウィトゲンシュタインの言葉「私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する」は一定の真理を捉えていると考えられます。私たちは自身の語彙に無い事柄を語ることすらできません。
異なる言語を用いると思考力に影響が出るかと言えば、それは必然的に生じます。
例えば英語を使った思考で「現在のパレスチナ/イスラエル問題がもたらす自社への影響と機会を考慮して営業戦略上の転換や提案を検討しろ」と言われても今の私にはできません。
それは単純に単語が分からないから言葉を紡げないのではなく、それらに関連する言語空間を認識できていないためです。
これが日本語であれば思考は容易です。技術屋ですので完璧な営業戦略は立案し得ないものの、地政論的知見と経済学的知見、或いは資源工学やロジスティクスの観点を用いれば形は作れるでしょう。つまり日本語の語彙で思考して日本語の語彙で回答を考えて英語に翻訳することはできます。知らない単語は辞書で調べればいいだけです。
しかしそれは"Geopolitics"や"Economics"といった言語空間、英語で思考しているとは言えないでしょう。それらの概念に対する語彙を今の私は保有していないため翻訳された別の言語空間でしか私の思考は活動できず、それはその語彙に関連する言語空間で思考していることにはなりません。
言語空間を用いた概念を説明するのは難しいため、もっと単純な話に換言しましょう。
例えばたどたどしい日本語を話す外国人を見て、その人に複雑で難解な話題を振ろうとは思わないかと思います。それはこちらの話す単語が通じないだろうと思うのと同時に、それについて思考することができないだろうと暗に認識しているためです。
つまり私たちは無意識的にも語彙と思考力に相関を持たせています。
少し偏見の強い人はその相関を強く感じるため、たどたどしい外国語を話す相手に対して頭が悪いと感じる人すらいます。ただその外国語を知らないだけで、母語であれば極めて複雑で難解な物事を理解する見識を持っているかもしれないのに。
しかしこれは知性に対する偏見ではありますが、言語に対する認識としてはウィトゲンシュタインが述べたように実際的です。現実にその人は母語であれば複雑で難しいことを思考できたとしても、その外国語ではそれができません。
もっともっとシンプルな例示をしてみましょう。
私たち日本人の考える「神」と英語圏の考える「God」はまったく違う概念です。英語で思考するということは「神」について思考するのではなく様々なニュアンスや文化的背景を理解して「God」について思考する必要があります。
つまり語彙とは「単語の意味を知っているかどうか」であり、その意味が指す空間はとてもとても深いものです。
結言
様々な言語学者が指摘するように、幼少期からの多言語教育やバイリンガルの育成が簡単ではないことは実際的な問題です。単純に複数言語を同時に学ばせるだけでは一つの言語教育に集中した場合と比べて語彙が半端になってしまい思考力を鍛えることが難しくなってしまいます。
もちろん他言語教育が必ずしも問題を引き起こすわけではありません。複数言語の語彙を持つことはそれだけ無数の言語空間に触れることでもあり、それは同時にその人の世界の限界を広げることにも繋がります。
よって他言語教育は多くの語彙を持てるだけの容量がある人にとって素晴らしいものであり、しかし容量が少ない人にとっては過酷なものとなるでしょう。この是非は安易に峻別できないかと思います。