忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

マクロな合理性とミクロな精神性のバランス

 情報化社会においてエコーチェンバーやフィルターバブルのリスクが喧伝されていますが、誰しも一日は24時間で有限の時間しかない以上、情報源が偏るのはやむを得ないことです。

 情報源の偏りは時間と努力を投資することで多少なりとも軽減できることはできるものの、現実的にはありとあらゆる情報ソースに触れることはできません。実際は取捨選択が必須であり、その結果情報が偏ることは避けようがないことです。

 

合成の誤謬

 そもそも、好ましくない情報を仕入れることは大抵の場合で不愉快なものです。自分の考えを否定するような言説、重視するものが違う表現、趣味に合わない見解など、世界は自らにとって好ましくない情報で溢れています。

 それらを取捨選択して避けることは不愉快から遠ざかる行為であり、他者が否定できるものではありません。

 ただ、それを行い続けていくと合成の誤謬に類似した現象が生じます。

 合成の誤謬とは経済学の用語で、ミクロな視点では合理的な行動であってもそれらの行動が積み重なって合成されたマクロな視点では必ずしも好ましくない結果が生じる現象を指します。

 例えばミクロな個人にとって貯蓄は正しい行為です。貯蓄は将来に対するリスクヘッジとして機能します。しかし誰しもがそうやって貯蓄に専念すると市場に貨幣が行き渡らなくなり、マクロな経済が悪化していきます。このように、ミクロな視点での合理的な選択が必ずしもマクロでは適切にならない現象を合成の誤謬と言います。

 

 人生の質を高めるためには快を重視して不快を避けることが合理的な選択です。よって自分にとって不愉快な情報は目にせず耳に入れず無視をすることがミクロな視点では合理的かつ適切な行動となります。

 しかしそれがマクロな視点から見て適切な行動かには議論の余地があります。自分にとって好ましい情報ばかりを取捨選択して集める行為は意図せずとも情報源の偏りを招き、エコーチェンバーのリスクを高める一方となるためです。

 

 もちろんこれは程度問題です。冒頭で述べたように多少偏ることは自然なことですし、それが必ずしも問題を引き起こすとも限りません。それこそ陰謀論などにのめり込んで生活に支障を来たす程度にさえならなければ大した問題ではありません。

 

理想と現実

 これは何も情報に限った話ではなく、人の人生全般に言えることかもしれません。

 苦労と言う名の目先の不快を避け続けることが人生の質を本当に高めるかと言えば、それでは合成の誤謬が生じてしまうことは誰しも感覚的に理解していると思います。

 理想を言えば、目先のミクロな視点でははなく長期的な目線をもってマクロな人生における最適解を選択し続けることが望ましいものです。

 ただ、それを続けられる人間は一握りでしょう。目先の損や不快を無視し続けるのは難しいものですし、何よりもそれをするためには強固なメンタルが不可欠です。普通の人はそれに耐えられず精神を病んでしまう危険すらあります。

 よって普通の人の現実的な解は、常にマクロな視点をもって合理的な選択を取り続けるのではなく、自分が取った行動が長期的に見て適切だったかどうかを後から反省すること、つまりフィードフォワードで先手を打つのではなくフィードバックで徐々に改善していくことが良いかと思います。

 

結言

 目先の損得しか考えないのではなく、長期的な損得をもって合理的な選択だけをし続けるのでもなく、時に快を選び、時に不快を選ぶ、その時の自分を大切にしつつも将来の自分も同時に思いやる、そうしたバランスを取ることが最も個人にとっての合成の誤謬を避け得る方策かと考えます。