相も変わらず堅苦しいような重苦しいような記事が連続しているので、雑談的な記事をもって緩めていきましょう。何事もバランスは大切で、張り過ぎても緩すぎてもよろしくない、私はそんな考え方です。
いえ、まあ、ブログはどちらかと言えば傾向が偏っていたほうが来訪者に親切な気もしますが、そこは個人的な趣味や嗜好の都合のためご容赦願います。
全体の傾向はさておき、土曜日に投稿する記事は気分を入れ替えるためになるべく軽くしたいと思っていますので、今回はゆるーく考えていることを書き出してみたいと思います。
着地点を考えずにフリーなライティングをしていきますので、緩くなるかどうかは保証しません。
一気に書くと傾向が被る
記事の傾向が連続してしまうのは毎日投稿している都合上、多少やむを得ないところがあります。
この駄ブログは毎日記事を投稿しているものの、必ずしも毎日記事を書いているわけでもなく、まったく書かない日もあれば勢いに乗って3記事くらいを書き上げる日もあります。思索に興じる時間が無い日もありますし、単純に記事を書く時間が取れない日もあります。逆に時間的余裕があって記事を複数作成できる日もあれば、書いている途中で別テーマとして記事を分割したくなる日もあります。
特に記事のテーマに沿わないけども別枠で語りたいことを別記事にする場合はその日中に複数記事を作成します。その日中に作成するのは海よりも深い理由があるわけではなく、その日中に書かないと何を書きたかったか忘れるからです。山よりも深い理由です。つまり浅いです。
よって同日に連続して作成した記事がある場合は数日ほどかけて投稿していきます。だから内容は異なるものの傾向は似たものとなることが多いです。
その間にまったく違う傾向の記事を書くため、一気に記事の軽重が変化する、だからこの駄ブログは記事毎の温度差が著しく異なりヒートショック気味になる、そんな深い理由です。やっぱり浅いです。
緩さが足りないような
どうにも、何かを語ろうとすると文章構成が堅苦しくなる悪癖を持っていそうです。
そもそも文章の接続がヘビィなんですよ。「そもそも」「もちろん」「よって」「つまり」「とはいえ」「しかしながら」といった前文との接続を頻繁に用いるため、文だけ伝わらず少なくとも段落単位で読み込まないと何が言いたいか伝わらない文章を手癖で書いてしまいます。
福澤翁を好きな歴史の偉人トップ5に入る程度に思っている私としてはなるべく万人に伝わるよう緩い言葉を編みたいとは思っているのですが、文章の根っこがどうにも論文や特許に侵食されているらしく、言葉には裏付けや根拠が必要だと思っているのが原因です。
「AはBという見解はあるもののCやDによってEだと私は思う、もちろんFとする意見も有り得るが、それはGのためやはりEと考えることが適切ではないか」
このように、言葉の定義や世間一般の意見を述べてみたり、複数の情報を網羅的に並べてみたり、考えられる反論や反証を提示してみたりと、一つの事を主張するために十倍くらいの情報量を消費してしまっています。
こんなもの、個人のブログであれば「AはEだと思う」で十分なはずなのですが、ついつい余計な文章を並べてしまうのはまごうことなき悪癖だと言えます。理系的、というよりは職業病なのでしょう。
結言
つまるところ、記事を緩くしたい気持ちはあるものの、文章力が付いてこないため緩くならないです。なんとも、困ったものです。
ちなみにこの記事を書き始めた最初のテーマは『うちのブログに緩い記事は必要か」でして、
「緩い記事とはそもそも何か、ブログには一貫性が必要か、もちろん一貫性があったほうが読者には優しいと思われるが、とはいえ想定している読者層によって必要性は異なるのではないか、つまりは緩い記事を書きたいかどうかが一番大切なのではないか」
みたいなことを書いていましたので、全部消しました。まったく緩くなーい。