忘れん坊の外部記憶域

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たとえ不快であっても、政治には関与せねばならぬ

 歴史上、数多の賢者が様々な表現で述べてきているように、この世界には変えることができるもの変えることができないものがあります。変えることができないものは鷹揚に受け入れて、変えることができるものを勇気を持って変えていくことが肝要であるとする先人の言葉は誰もが常々留意しておくべき箴言でしょう。

 この世は全てが相互に影響を与え合いながら流転している途上であり、無数の「個」の意志が積層したものが「全」である以上、物事が自らの思い通りになることはそうそうありません。小さな一人の「個」の意志が「全」に反映されないわけではなく、無数の「個」の意志が反映されるからこそ小さな一人の「個」の思い通りにはならない、そういった話です。

 

 その代表例は政治でしょう。

 

政治とは本質的に不快なもの

 人は自らの思い通りにならない物事に対して不快感を覚えます。これは抑制し難い原初的な感情です。だからこそ冒頭で述べた賢者の言葉が箴言足り得ます。変えることができないものに注力してしまうと「労多くして功少なし」となることは明白であり、成果は乏しく、残るのは徒労感と不快感のみです。

 

 政治は変えることができないものの典型です。

 それは「個」の意志によってまったく変化しないという意味ではなく、むしろ政治の世界は無数の「個」の意志によって常に変化し続けています。これは”どのように変化するかを小さな一人の「個」が規定できない意味”での「変えることができないもの」です。

 

 極言してしまえば、政治とは本質的に不快なものです。

 それは古代から現代まで変わりません。古代であれば高潔の証として政治権力に携わらないことを良しとした中国の許由と巣父のような逸話が残っていますし、SNSなどで可視化されている現代であれば政治に関して言及されている方々の”政治に関わることで生じる不快感”は明白に見て取れるでしょう。政治権力を握る人、それに賛同する人、それを批判する人、いずれにおいても言及する言葉の端々に滲み出るような不快感が表出しています。

 

 過去にも引用したように、政治の話が忌避される理由の一つに「楽しくないから」があります。これは換言して「不快だから」としてもよいでしょう。

 政治の話が忌避されていれば政治への参加意識が芽生えるはずもありません。

 では、なぜ政治の話がタブー扱いされているのか。

 10年以上前の古いデータですが、一般社団法人中央調査社が2006年に行った意識調査結果から理由を探ってみましょう。

政治の話はタブーなのか―インターネットユーザーに対する実証分析から―| 中央調査報 | 中央調査社

 本調査結果では、政治の話題を忌避する理由として以下のようなものが上位に挙げられています。

 

  • 話す必要がないから
  • 縁遠い話だから
  • 楽しくないから
  • 人を傷つけそうだから

政治の話が忌避されず、もっと活発になるための検討 - 忘れん坊の外部記憶域

 

 実際、政治的な物事についてブログで言及している私ですらSNSで政治的な論争を見る際は正直に言って不快を覚えることがあります。それよりは動物の愛くるしい動画を見ているほうがよほど愉快で楽しいです。

 

それでも参画者は増えなければならない

 政治とは本質的に不快なものであり、個人がその不快を回避するために政治に対して関与や言及を避けることはとても合理的な選択です。

 しかしながら、経済学で言うところの『合成の誤謬』のように、個人にとって合理的な最適解を選択したとしてもそれが全体としての最適解になるとは限りません。

 

 むしろ、残念ながら政治は合成の誤謬が生じる典型例ですらあります。

 政治とはすなわち利害調整であり、個々の権利が衝突した際にその妥協点を模索する行為です。その模索において生じる摩擦熱こそが不快感を生みます。

 ではその摩擦熱を厭い避ければ世は事も無しかと言えば、決してそうはなりません。人と人が社会を構築する以上、人と人の間で摩擦が生じることは必定です。体の痛みを無視すれば病気が消えてなくなるわけではないように、目を背けたとしても摩擦が無くなるわけではありません。

 私たちは社会から隔絶した孤島で一人生きるか、摩擦が生じないよう個々の権利を全て剥奪するか、無限に続く摩擦を皆で努力して緩和していくかを選択するしかなく、その中であればどれを選ぶべきかは比較的明白かと思われます。

 

 厳しい話ながら、この政治的調整は誰かに負託することすらあまり望ましくありません。大勢が政治への参画を負託して少数の誰かに任せるようになった場合、それは寡頭制を招くことになります。民主的な選別を伴わない”誰かがやってくれるだろう”はその誰かを独裁者に祭り上げるための入口に他なりません。

 

結言

 つまるところ、政治とは不快なものであり、しかしたとえ不快であっても関与しなければならないものです。

 政治が不快であることは変えることができないものであり、受け入れる必要があります。

 しかし政治そのものは個人の思い通りにならないまでも人々の関与によって変えることができるものである以上、勇気を持って関与していく必要があります。