私が鈍感なだけなのかもしれない。
怨憎会苦・求不得苦
「なんであの人はああなんだろう、すごく嫌だ」
「どうしてこんなことをするのだろう、理解できない」
「なんでこんなことも分からないのだろうか」
他者の振る舞いに不快を覚え、苦しみを感じる。
仏教の言葉で言えば怨憎会苦(おんぞうえく)や求不得苦(ぐふとくく)に該当するでしょうか。
怨憎会苦とは自分が怨んだり憎んだりしている人とも会わなければならない苦しみです。職場や所属団体など、避けようがない状況で嫌な人と会わなければならない時に感じる苦しみを指します。
求不得苦とは求めるものが得られない苦しみです。欲しいモノや結果が手に入らない時に感じる苦しみを指します。他者が自身の求める言動を取らない時に感じる苦しみもこの求不得苦に該当するでしょう。
これらの根底にあるのは自身の欲求と期待です。
このような場面ではこうすべきだ、人はこのような言動を取るべきだ、といった「人として為すべき振る舞いの基準」、すなわち欲求と期待を誰しも個別に持っています。その基準に沿わない人は『嫌な人』であり、怨憎の対象です。
我慢するのはもったいない
求める振る舞いを取らない人に会うことは苦しいものですし、求める振る舞いを得られないことは苦しいものです。
しかしながら、この苦しみを感じるのはもったいないと私は考えています。
この苦しみが何かしらの役に立つかといえば否です。無ければ無いに越したことはない苦しみの一種であり、我慢するだけの価値はありません。
また、自身が自身の基準に従って行動しているのと同様、相手は相手の基準に従って行動しているだけであり、相手が自身の望むような振る舞いを取るよう変化することを期待しては求不得苦の苦しみがより増してしまう結果となりかねません。
もちろん親しい間柄であれば互いに望みを伝え合って振る舞いの矯正を強制することも可能ですが、そうではない間柄の場合はそもそも自身の欲求と期待を伝えることも難しいでしょう。伝えたいけど伝えられないと我慢してしまっては、やはり求不得苦の罠に陥ることになります。
他者に期待をしない
つまるところ、他者の振る舞いに苦しまない方法は一つだと考えています。
「まあ、あの人はそういう人だから、仕方がない」
良く言えば諦観、悪く言えば諦めです。無意識のうちに期待をするから苦しむのであって、端から求めなければ愛憎得苦や求不得苦を感じることはありません。
なにせ大抵の場合、相手を変えることはできないものです。それが出来る間柄であれば、そもそもこのような苦しみを削減するためのコミュニケーションが取れるのですから。
無理なものを無理として受け入れず、無理なまま無理を通そうとすれば摩擦と磨耗によって苦しみが生まれるのは道理というものです。
一般的に用いる際の「諦める」はどうにもネガティブな感覚が付きまとう言葉ですが、この場合の諦め・諦観とはそういった負のものではありません。苦しみを心の内に残したまま断ち切るのではなく、本質を見極め、無理を理解し、変えられないことを受け入れることを意味します。
苦しみを耐えるのではなく、そもそも苦しまない、それが諦観です。
雨が降って困ったとします。
この時、雨に文句を言っても仕方がないです。雨は自然の法則に従って降るものであり、個人がそれをコントロールすることはできません。そういった現象に対して自らで苦しみを生み出してしまうのはどうにももったいないことだと、そう考えます。
人や社会もまた同様です。
嫌な人のせいで苦しむのは癪に障る
もっと感情的な部分でも述べてみましょう。
嫌な人のせいで苦しむのって、余計に腹が立ちませんか?
だって嫌な人とはつまり自身にとって得にならない不快な人のはずです。
そんな人から影響を与えられて苦しむなんて、嫌じゃないですか。
それで腹が立って、さらに嫌な人が嫌になって、さらに苦しむ。そんなの苦しみのデフレスパイラルまっしぐらです。
嫌な人だからこそ影響を受けないようにする、そのほうがお得な気がします。
余談
「仕方がない」は私の口癖の一つです。
苦しいけれども仕方がないから受け入れる、というわけではなく、無理なものは無理なのだから、ただありのまま受け入れるための「仕方がない」として使っています。
仕方(手段)がないのだから、それ以上でもそれ以下でもなく、なにも苦しむ必要はないのです。
まあ、これは仕方(手段)を考えることが仕事のエンジニア的発想かもしれませんが。