私の口癖は「仕方がない」です。
このブログには1000以上の記事を投稿してきましたが、その内の約130記事に「仕方がない」が入っている程度には口癖です。数えてみてちょっとびっくり。「仕方ない」などの表記揺れや類義語を含めればもっと使っていることでしょう。
「仕方がない」は不満足と諦めを含意したネガティブな印象を持つ人が多い言葉かと思いますが、個人的には前向きでポジティブなニュアンスで使っています。
そんな「仕方がない」について細かく語っていきましょう。
仕方(手段)
「仕方がない」とは「やむを得ない」「どうしようもない」「なすすべがない」の類義語で、理不尽や困難な事態に対して不満足ではあるけどもその状況を受け入れる際に発する慣用句です。
また「仕方」とは手段や方法を意味する言葉であり、「仕方がない」とはまさしく「為す術がない」ことを率直に表しています。
私は技術屋であり、「こんな機械があればいい」「こんな仕組みが最適だろう」と、より良い効果や望ましい結果をもたらすための仕方(手段)を模索することが仕事であり、それはもはや日常的な思考習慣にまでなっています。
そんな私のような技術屋にとって「仕方がない」は極めて妥当な理解すべき道理に他なりません。
仕方(手段)がないことはそれ以上でもそれ以下でもなく、ただ諦めて受け入れざるを得ない現実だと考えます。
ない袖は振れぬ
ここで言う諦めとは望みを失って絶望するような負の感情を伴った苦しみの受容による我慢ではなく、諦念の意味です。
諦念とは道理を悟り真理を静観する心持ちであり、そこには我慢や後悔のような苦しみは存在しません。
世の中なんでもかんでも技術的に解決できるわけもなく、仕方(手段)がないことなんて技術屋の仕事においては日常的です。
そのためか、私は仕方(手段)の探求に慣れているからこそないものをないものとして受け入れることにも慣れています。仕方(手段)がないことは苦しむ必要があることではなく、感情で処理する事柄でもなく、理解すべきただの道理です。
ない袖は振れませんので、袖が無いことを嘆いても意味がありません。なにせないものはないのですから。ただそれだけです。道理を理解して現実を静観するだけの簡単なことであり、ただの現実にわざわざ苦しむ必要はありません。
むしろ「仕方がない」と模索に区切りをつけることは別の方向へ向かうための感情と意識の切断であり、次へ進むためのポジティブで前向きな発想ですらあります。
結言
「なんで僕は生まれてきたときに100兆円の貯蓄を持っていなかったんだ!」
「どうして我々は物理法則を無視できないんだ!」
と苦しんでいる人がいれば意味もなく仕方もないと誰もが思うように、仕方(手段)がないことはただの現実です。そこで生まれる苦しみは、できないことや仕方がないことに固執する我執が生み出しているに過ぎず、意識していれば生じません。「仕方がない」ことは、ただただ仕方(手段)がないだけです。
今の時点で仕方(手段)がないのだから、その事実に苦しむのではなく次の仕方(手段)を模索しに進んでいく、そんな前向きな気持ちへ切り替えるための言葉として私は「仕方がない」を用いています。
だって、どうにもならないことに対して不満を持っても「仕方がない」、でしょう?