私の口癖の一つに「仕方がない」があります。
この「仕方がない」が含意する諦観について、少し述べていきましょう。
「諦め」と「諦観」の違い
諦観とは「諦め」とは異なる概念です。
諦めは望みが実現できないことへの絶望や断念といったネガティブな感情を伴う行動であるのに対して、諦観は物事の本質を見て取ることを意味します。
例えとして、出先で急に予定外の雨が降ったことを考えてみましょう。
その際の諦めとは、たとえやむを得ないとしても服が濡れることへの嫌悪や予定通りに物事が進まないことへの怒りのように負の感情を伴って現れます。
対して諦観は、雨が降ることはただの自然現象だと悟ることです。そこにはネガティブやポジティブに属する感情の動作は存在しません。ただそうであるから、そう受け取る、それだけです。
すなわち「諦め」が悔恨や後悔、残念に類する概念であるのに対して「諦観」は感情のトリガーを伴わない自然体である様を意味する概念です。
私が「仕方がない」と口にする時には、物事を残念に思ったり悔やんだりする気持ちはありません。仕方(手段)が無いのだからそれは仕方がないことだと、現状を自然体で受け入れた結果として使っています。
感情に対する認識
私たちは過去から現在、そして現在から未来と進む歩廊を一方向に歩んでいます。
肉体や精神は現在から未来へと向かって押されるように突き進んでいきますが、感情は現在に固定されて共には進みません。感情は脳の電気的な働きによる瞬間的な現象であり肉体や精神と違って固有のものではないためです。
過去に感じた怒りや悲しみや喜びも、その当時の感情がそのまま脳に直接記録されているわけではありません。過去を思い出して怒りや悲しみや喜びを感じるのは、そういった記憶と同じ感情を現在の脳が再現しているからです。
極端に言えば、脳の障害で悲しみの感情を持てなくなった人がいたとして、その人は過去の悲しい出来事での悲しみを現在の脳が再生できないため、残念ながら再び悲しむことができません。
肉体や精神が未来へ進む一方、感情は置き去りにされて現在から過去へと遠ざかっていく。
その置き去られた感情が心から引き離されて千切れていく時に苦しみが生じます。
これが諦めの痛みであり、諦めの苦しみとはつまり”残念”だと思う悔やみの痛みです。過去へと遠ざかっていく現在の時点に念(思い)が残っているから心を引き千切られる痛みが生じる、と捉えれば分かりやすいでしょうか。
諦観で苦しみが生じないのは、諦めとは違って念(思い)を残していないためです。ニュートラルな気持ちで物事を捉えているからこそ心が引き千切られる痛みは生じません。
このように、感情とは固有の物質的なものではなく現象だとする認識を持つと、諦観への理解が深まると考えます。
諦観は能動から生まれる
とはいえ常に諦観の心境を持つことは尋常ではありません。真に諦観を極めた人は悟りを開いた人と同義であり、そんな人は現世にそうそう居ないでしょう。
よってまずは小さい範囲での諦観から始めることが吉です。
その一つとして、物事へ全力で取り組んで、しかし成功裏に終わらない経験、すなわち心地よい失敗経験が有効だと考えます。
何事であってもいいのですが、出来る限りを尽くしてこれ以上ないほどに全力を出し切れば、それが成功裏に終わらなかったとしても人はその結果を鷹揚に受け入れられる心境、すなわち諦観に至ります。
なにせ本当に全力を出し切っていれば、もうそれ以上はないのだから否応なしに結果を受け入れざるを得ないためです。余力が残っているから「もっとできたはずだ」「ああすればよかった、こうすればよかった」なんて言い訳が心の中に生じるのであって、出し尽くしていればそういった後悔は生じません。
全力を出し切るとは、現在に感情を残さないどころか感情を残す余力すら費やすことです。そこまでやればどんな結果になろうとも納得することができますし、そこに苦しみはなく、むしろ心地よい感情すら湧いてくることでしょう。
もちろん全力を尽くすと言っても体や心を壊すまでやり過ぎては心地よい失敗経験とはなりませんので、心身のバランスを崩さない程度です。
結言
つまるところ、諦観を理解するには「人事を尽くして天命を待つ」ことが最適です。人事を尽くし切ってもどうにもならない経験をいくつも積み重ねてきた人であれば、自然と穏やかな諦観の心境へと近づいていくと考えます。