忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善意を否定できないからこそややこしい

 仕事中の私はその時の考えが顔にも態度にも出るタイプです。むしろ言葉にも出ます。納得がいかない時は納得がいかない旨を伝えますし、不満な時は不満だと率直に伝えます。

 これは先天的なものではなく訓練と習慣によって意識的に行っています。言いたいことは言わなければ伝わらない技術屋の文化圏に属している以上、言外に察してもらおうとしても徒労に終わります。

 言いたいことや思うことを我慢して溜め込むことは単純にメンタルへ悪影響を与えますので、引っ込み思案には少し厳しいもののこれは比較的悪くない文化です。

 よって不合理なタスクを振られた場合は合理的なやり方を直言し、振り先を間違えているタスクは拒絶の意を示し、目的が不明瞭なタスクはその明確化を求めます。最終的には関係各位の政治力や全体最適の視点でやらざるを得ない無駄なタスクも存在しますが、それが無駄であること自体は意思表明を行います。

 

 そのような文化圏の人間からすれば「ゴタゴタ言わずに黙って従え」は組織集団を腐敗させる好ましくない文化であり、組織として能動的に忌避すべき対象だと考えます。自由で闊達な意見具申を下部構成員に許さない組織では構成員が自律的な思考を失って硬直的な前動続行を良しとするようになり、組織の発展が阻害されます。下部構成員の意見を採用するかは別として、健全な組織文化を育むためにもまずは意見を言える環境こそが重要です。これは今どきの言葉を用いれば心理的安全性の一種だと言えるでしょう。

 

線引きは当然ある

 とはいえ、福澤翁が言うように「人の自由とは天の道理に基づき人の情に従い他人の妨げをなさずしてわが一身の自由を達すること」すなわち制約が無いことではなく阻害が無いことだと私は信じています。

 よって自由闊達な意見具申とは無制約に何を言ってもいい類のものではなく、他者の人権や人格を阻害しない範囲で行われるものであると考えます。

 そのような思想からして、私のような人間でも直接的に述べにくいことはあります。

 

 例えば善意。これはとても扱いが難しいです。

 

 私の上司は他部署で処理できていない仕事を巻き取って度々持ち帰ってきます。明らかに設計屋の業務ではない仕事もざらです。

 私は「その職務を果たすべき責任を負う部署が為すべきであり、職務に堪え得るだけの能力や機能を示せないのであればその椅子に座り金銭をもらう資格はない」くらいの、良く言えばジョブ型雇用の欧米的、悪く言えば過激な考えの持ち主です。少なくともメンバーシップ型雇用の多い日本では苛烈の域に入るでしょう。

 それに対して他部署の仕事を巻き取ってくる上司からすれば「できないのだから仕方がない、できる我々で処理してあげよう」との考えだそうです。純度の高い善意が見られます。

 

 ビジネスの論理で言えば「それは私たちの仕事ではありません」が正論ですし、実際に私もそこまでははっきり述べます。

 ただ、「それは分かるけども、できない人たちに求めてもできないのだから仕方がない」と言われてしまえばそれ以上は具申せず、諦めて受け入れます。

 実際には、できないからと人の仕事を取り上げる行為は善意ではあれ善行とは少し遠いものです。度が過ぎればできない人をできないままに封じ込めてしまうことになりかねません。それは分かっていますが、助けられる範囲で困っている人を助けることはなにより私自身も望むところではあります。なによりも善意は人格の発露でありそれを否定することは正論であろうとも倫理的に不適切です。

 だからこそ適切ではないことまでは意見表明をするものの、それ以上はなんとも直言しにくいものです。誰に向けられたものであっても他者の善意を無碍にすることは難しくあります。

 

 でも、なんでもかんでも仕事を持ち帰って来られると、それはそれでたまったものではないのですよ…

 

結言

 「可哀そうな捨て猫を拾っていいのは飼うことに責任を持てる人だけである」

 それはそれで正論であり、しかしだからと言って肯定も否定もし難い気持ちになるのは、なんともはや。

 上司が拾ってくる"猫"の世話でてんやわんやしている身としては難しいところです。「元の部署に返してきなさい」と言うのが正しいのでしょうけども。