忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

返り血の付いた綺麗事は綺麗だろうか

 綺麗事とは「実情にそぐわない、体裁ばかりを整えた事柄」という意味で、一般に非難の意を含んだ用いられ方をする言葉です。

 類似の扱いをされがちな言葉が正論ですが、正論は「道理にかなった正しい意見や議論」という言葉であり、語意そのものには非難の意味はありません。この2つはしっかりと分けて考えたほうがよさそうです。

 例えば通勤で車を使う人に対して「制限速度は守らないといけないよ」と言うのは正論です。それに対して、車に乗っていて津波に遭遇した人に対して「制限速度は守らないといけないよ」と言うのは実情にそぐわないので綺麗事です。まあそんな状況でそんな綺麗事をいう人はまず居ないでしょうが。

 なんにせよ、正論と綺麗事は別物だということです。

 

綺麗事の好き嫌い

 語意に従うのであれば非現実的で実情にそぐわない体裁ばかりの事柄である綺麗事を好む理由は無いのですが、俗的な意味での綺麗事は好き嫌いが人によって大きく分かれます。これは正論と意味合いが混同されてしまっているのでなんとも難しいところです。正論を嫌う人はどちらかというと綺麗事を嫌っているといったほうが正しいのかもしれません。

 類似の言葉として理想論があります。辞書的な意味での理想論とは「理想的ではあっても現実からかけ離れ、とても実現できそうにない考え方」という意味です。これは綺麗事と同義であり、理想論=綺麗事、と言ってよいでしょう。個人的には理想論にはまた異論を持ってはおりますが、今回は辞書的な意味をそのまま用いることにします。

 

綺麗事・理想論の存在は悪ではない

 たとえ実現の可能性が無かろうとも人には理想を夢見る自由があります。また夢は行動への動機・インセンティブとなり得るのですから、綺麗事や理想論を一概に悪しきものと断定することはできません。

 それに理想のため前向きに頑張る人は輝いていますし、綺麗事を実現しようと努力する人は立派だといえます。実現の可能性が限りなく低いとしても、自分の責任の範囲で挑戦をすることは悪いことではありません。

 

殴られたら誰だって怒るよ

 ではなぜ綺麗事や理想論は嫌われることがあるのか。これは単純な話で、それを用いて人を殴る人がいるからです。

 夢を持つのはいいでしょう。綺麗事に邁進するのも個人の人生です。どんな綺麗事を述べてもいいですし、どんな理想を掲げたって構いません。

 ただ、その綺麗事を用いてわざわざ人を殴りに行くなというだけの話です。綺麗事や理想論が嫌われているのではなく、綺麗事や理想論で殴ってくる人が嫌われているという、ただそれだけの話です。失言をしてしまった人や勝負に負けてしまったアスリートにどんな思いを持とうがそれは自由ではありますが、いちいちその思いを持って殴りかかるなという、実に単純な話なのです。綺麗事というのは非現実的なまでに理想的で美しい"あるべき姿"であり、それ故に硬く堅牢です。そんなもので殴られれば当然痛いのです。誰しも痛いのは嫌いですし、殴られるのは嫌だということです。

 殴る側は正しいと思って殴りかかる場合も多いでしょうが、それは綺麗事という名の棒を持って殴った後に「何を痛がっているんだ!この棒は綺麗だろう!」と喚くようなものです。しかしながら綺麗事を語ることと人を殴ること、それとこれとは話が別です。

 自分の心の中で理想論を持つのはいいのです。内内や身内で綺麗事を語るのだって問題ありません。限度を超えない範囲であればSNSやブログで述べるのだっていいでしょう。ただただ、いちいち殴りに行くなと、それだけの話です。

 

 理想論や綺麗事はそれ単体であれば綺麗な輝きを持つものです。しかしそれで人を殴ってしまっては輝きも返り血によって色あせてしまうことでしょう。せっかくの綺麗な理想は人を殴るためではなく、自分の中で優しく大切に育てたほうがいいと私は思う次第です。

 

世の中を変えるか、手の届く範囲か

 さて、「いちいち人を殴るな」というのも立派な綺麗事です。殴りかかる人に対して殴りかかるなという綺麗事で殴りかかるようなことをしては負のループです。これはどうしたものか、なんとも難しいですね。

 私個人としても、世の中こうあったほうがいい、こうあるべきだ、という考えは持っています。しかしそれを押し付けるような行いは正義の押し付けになること必至です。世の中は悪意が渦巻いて争っているだけでなく互いに善意と正義を持って殴りあっている場合もあるということは、今回話した綺麗事の押し付けが良い傍証となるでしょう。綺麗事で殴る人の多くは悪意ではなく、善意かあるいは無意識なのです。

 とはいえ私も大上段から物事を語るほどお利巧ではなし、世の中をより良くしようとする高い位置からの啓蒙はアカデミックな方々や賢い方に任せるとして、私は声の届く範囲、手の届く範囲で満足することとします。

 

 

余談

 最初に述べたように正論とは「道理にかなった正しい意見や議論」です。そのため道理にかなっていない綺麗事は聞く必要なんてありませんが、正論は素直に聞き入れたほうが良いでしょう。ただし正論で殴りかかるようなことはやはり望ましくありません。正論を伝えたいのであればアサーティブに行う必要があります。