忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

身近な政治の事例から考える、政治に必要な認識

 先日のタクシーでの出来事。

 

運転手さん「到着しました、1200円です」

 

私「あ・・・運転手さん、すみませんが細かいのが無くて、1万円なんですけど、これでいけますか?」

 

「あー、いやー、申し訳ないことに今お釣りで出せるのが2000円しかなくてですね、ほら、この通り」

 

「あらら、それはどうにもならないですね。うーん、急ぎなのに困りました」

 

「んー、そうですね、なにか電子マネーや電子決済できるものは持ってたりしますか?」

 

「ええと、au PAYならすぐに出せます」

 

「ああ、それなら決済できたはずです。お手数ですが正面の端末を使ってお願いします」

 

「はい、ちょっとやったことがないので操作に時間が掛かりそうです」

 

「いえ、待てますので大丈夫ですよ」

 

政治とは何か

 なんてことはない普通の会話ですが、これも立派な政治です

 政治というと何か立派なものや国政のような大仰なものをイメージしがちなものですが、本来的に政治とは『利害関係者の価値を相対化し、利害を調整して意思決定をすること』です。つまり政治とは必ずしも立派で大仰なものだけではないどころか、むしろ極めて身近な行為だと言えます。双方が都合や利害を提示し合い、それを相対化して判定した上で、折り合いがつかなければ双方が納得いく代替案を調整し実行することが政治です。

 

 冒頭の会話も政治の要件を満たしています。

 私は私側の都合を説明し、運転手さんは運転手さん側の都合を説明しています。今回は折悪しく双方の都合と利害が合致しなかったため、相対化を図りつつ新たな代替案を模索し、互いが納得できる落としどころへ調整した結果、円満に意思決定を行うことができました。

 

 もっと直截的に言えば、相手方の事情を斟酌して互いに落とし所を探る行為こそが政治です。利害の調整が行われないものはただの主張に過ぎず、政治ではありません。

 上の事例で言えば、例えば私が自身の都合を押し通そうと「うるせえ、こっちは急いでんだ!1万円しかねえんだからなんとかしやがれ!」と叫んだとしても、運転手さんの都合からすればどうにもならないことなので折り合いをつけることができません。

 逆に運転手さんが「こっちは2000円しかねえんだからコンビニにでも走って崩してきやがれ!」と騒いだとしても、こちらとしても急ぎで時間に追われていたためそれを承諾することはできかねます。

 そのように都合を押し付け合うのではなく、擦り合わせて適切な落としどころを模索する行為こそが政治です。相手の都合を斟酌せずに自身の都合ばかりを主張するのは政治ではなく、ただの我儘です。

 

政治クラスタの”非”政治性

 少し辛口なことを述べていきます。

 SNSなどの政治系クラスタでは自分たちの都合や事情を声高らかに叫んでいる人々がいらっしゃいますが、そのような人々は政治的な活動をしているように見えて、実際は政治をしていない人達です。ただ自身の都合や主張を展開しているだけであり、政治に必要な”相手方の事情を斟酌して利害を調整する”行為を行っていないのですから。

 あのような自儘な振る舞いを政治と誤解してしまい忌避する人がいることは大きな損失だと思っています。攻撃的で我儘な人がSNSなどで目立っているだけで、現実の身近な政治はもっと互いへの思いやりや理解に溢れたものであり、忌むべき行為などでは決してありません。

 

 どのような意見であっても言論の場から排除することは望ましくありませんので、SNSで他者を攻撃することを”政治”だと勘違いしている方々のことは、「そういう意見もあるのか」とシグナル的な見方をするのが良いかと思います。

 

結言

 政治とは双方の都合を並べて相対化し、利害調整を行う行為です。

 よって自らの都合を述べると同時に相手の都合を汲み取る必要があります。

 自らの都合と相手の都合を相対化することも重要です。相対化とはすなわち客観性を持たせること、”私の思いや都合”と”相手の思いや都合”を第三者的に天秤へ載せることです。自らの思いや都合に重きを置かないことは政治をするのに不可欠な認識だと言えます。

 そういった斟酌や相対化をせずに自らの都合を押し付けようとする行為は、残念ながら『政治』とは程遠いものです。