忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

政治が行われることの是非

 普段から堅苦しい話が多いので、いっそ文章まで堅苦しくしてみてはどうだろうという実験。

 

政治の要否

 政治とは複雑怪奇な巨獣と見紛うやもしれないが、その行使において使役される権力や支配、法や自治という実行力の存在がその巨体を被覆しているだけであり、本質的には社会の対立や利害を調整し、社会を統合し、社会の意思決定を行う行為を意味する。

 畢竟、政治というのは実施されないことが理想の行為である。調整とは即ち摩耗であり、別言すれば浪費を虚飾した言い換えに過ぎない。黒々とした珈琲に一滴のミルクを垂らせば撹拌せずとも時を置いて均質化されるように、エントロピー増大に従い浪費を生じずとも自然と平衡に至ることが望ましい。

 

 さりながら、人間社会においてエントロピーの増大、無秩序であることが全体の幸福に資するとは必ずしも断定できない。富の偏在は幸福の勾配を生産し、資源の偏在は渡世の勾配を現出させ得るものであり、天秤の不均衡は常に片側へ辛酸をもたらす。

 付言するならば、時に人は他者よりも優越的地位を保有することに幸福を見出すものであり、地位財を思慮するに全てが均一で秩序だっていることですら幸福を極限にするとは限らない。友と安酒を分け合い払暁まで語らうことを幸福とする者と、他者を踏みつけ至高の座に昇ることを幸福とする者は、決して同じ幸福を共有し得ない。

 個々の幸福を共通化する試みは歴史上様々に実行されてきたものの、それが成功した試しは無い。人はパンのみにて生くるものにあらずしてサーカスをも請うものであるが、同じサーカスの演目を楽しめるかどうかは別である。

 そも平衡に至るまでの歳月も肝要となる。均衡へ到達するまでに人の生涯をも超越する幾星霜の歳月を閲するようでは無意味であり、それは不均衡と同義とすら言える。

 

 詮ずる所、個々別々たる各々の幸福を能う限り最大化するためには、適宜所要とされる摩耗を甘受し、迅速をもって政治的妥協点の模索に苦心する他ない。

 須らく、諸人は政治への参加が不可避であることを留意せねばならない。不参は即ち諸人が己の資源を浪費してでも斟酌した結果の果実を掠め取る盗人との糾弾を避け得ぬだろう。

 

要約

 利害調整は大変だけど、「誰もが幸せになる社会の形」を未だ誰も知らない以上、皆で政治をして頑張ってそれぞれの幸福を調整していくことが必要だ、という当たり前の話をしかめっ面で語ってみました。ただただ読みにくいだけです。

 

補足

 実際、政治というのは行われないに越したことはありません。何もしなくても誰もが幸福になれる、もしくは容易に追求できるとなれば、わざわざ手間と時間を掛けて政治なんかしなくてもいいのです。

 しかし現実はそうではなく、どこかで幸福を極めている人もいれば、どこかで不幸のどん底に落ち込んでいる人もいる。少ししか保有していなくても幸福な人もいれば、大量に保有していても不幸な人もいる。人それぞれに様々な幸福の形と状態があり、それを均一的に管理することはできません。

 それを良しとするかどうかは人それぞれですが、しかし少なくとも多くの人が幸福である状態のほうが望ましいだろうという思いが政治の根源であり、政治の必要性であり、政治の役割です。

 政治に付随する権力のほうが豪奢で目立つためについ目をくらまされがちになるものですが、民主主義国家の国民の一人として、政治の本質である利害調整と、目的である幸福の最大化を意識していきたいものです。

 

 

余談

 このような思想ゆえ、今はもう使われない言葉ですが「末は博士か大臣か」という言葉に私はあまり共感できないです。職業に貴賎は無いと思っていますが、むしろだからこそ政治家が偉い存在だとは思えません。

 もちろん政治家は大変な仕事でありそれに従事する人々は立派だとは思いますけども、それはその個々人に対する尊重であって、政治家という器自体には「成り上がった末の立派な仕事」という印象は持っていないです。