忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

教えたがりの是非:ヒューマンファクターの観点を交えて

 人に何かを教えるというのはとにかく難しいことだと思います。特に昨今では「教えたがりおじさん」や「マンスプレイニング」というフレーズが存在し、その存在が忌避されている以上、おじさんは安易な気持ちで人に何かを教えるという行為をすべきではない時代と言えるかもしれません。

 

 私も人に何かを教える際は上から指導する形を避け、「私はこう思う」のフォーマットで語り、自らの気付きによって学ぶような形式を取ろうとなるべく努力してはいます。

 ただ、人から「教えたがりおじさん」との批判を受けたとなれば甘んじて受け入れざるをえないでしょう。少なくとも字面通りの「教えたがりおじさん」に該当しないと胸を張って述べる自信はありません。

 

 この「教えたがり」という事象について、技術屋視点での見解を述べていきます。

 

うざい、という気持ちは当然の心理

 教えたがりのGoogleサジェストを見れば、

「教えたがり うざい」

「教えたがり ハラスメント」

「教えたがり 承認欲求」

「教えたがり 心理」

「教えたがり 男」

「教えたがり 女」

というような文字列が並んでいます。教えたがりはうざいということが世の総意とまで言えるかもしれません。

 それはまあ、多くの人が同意することでしょう。聞いてもいないのに勝手に教えてくる、上から目線で指示してくる、マウントを取ってくる、そういった態度の人を煩わしいと思うのは当然の心理ですし、いちいち半畳を入れられて自らのペースを乱されるのは気分の良いものではありません。

 そもそも人は作業や行動の内容云々ではなく、自らの思惑に沿って行動することに楽しみを覚え、反対に人の思惑に沿って行動することには不快を覚えるようにできています。これは本能的な人間心理の問題であり、やむを得ないものです。しかしだからこそ、頼んでもいないのに人から何かを教えられるというのはまったくもって面白いものではありません。

 

聞いてくれれば教えたのに・・・

 ただ、教えたがりの人間が全く存在しない世の中になればいいかと言われるとそれもまた少し疑問に感じます。確かに精神的な負担は軽減されて自らの望むペースで活動することができますが、トラブルのリスクを高めることにもつながりかねません。

 

 人は何かに集中しているとどうしても視野が狭くなってしまったり、ありとあらゆることを知っているわけではないので無知ゆえの失敗をしてしまうものです。

 それを避けるために、無事故企業と名高い企業では「人の行動に口を出す」文化を意図的に構築しています。直接的に関係ないベテランが作業時の注意を促したり、別のチームの人がより安全な方法を教示したりするような、教えたがりを認める文化です。

 教えたがりが存在しない組織、セクショナリズムや蛸壺化が進んで他人の行動に口を出さなくなった組織では、視野狭窄による錯誤や無知によるトラブルを回避することができません。視野狭窄に陥っていることを自ら気付くことは極めて困難ですし、無知による事故は防ぎようが無いからです。

 聞かれたことだけ教えればいいとは言っても、当人が知らないことを知らなければそもそも聞けないのです

 「聞いてくれれば教えたのに・・・」というトラブルを防ぐため、無事故企業では知っている人が積極的に教える文化を構築しています。

 本能的に人が嫌がる行為を文化として組織内に構築するためには相当の教育コストを払わねばなりません。無事故企業やトラブル発生の少ない企業はそれでもそのコストを必要と考えて投資しています。

 

必要なのはアサーティブコミュニケーション

 つまるところ、教えたがりをただ排除すれば万事良い結果になるかと言えばそうとは言えない可能性が高いです。残念ながら不安全状態が蔓延する結果となりかねません。

 しかし教えたがりがうっとおしいこともまた事実であり、その不快感を現状追認する理由は無いでしょう。

 要は「教えたがり」を単純に問題視するのではなく「教え方」を問題視すべきかと愚考します。必要な教えたがりは残し、しかし不快感を可能な限り除去する方向が望ましいです。

 

 結局のところ重要なのはアサーティブコミュニケーションだと考えます。

 まず第一に、相手へマウントを取ることが主目的の教えたがりはその時点でアサーションではないので論外であり、それは積極的に除去すべき行動です。

 次に相手への親切心や思いやりが主目的の教えたがりですが、誰だって聞いてもいないのに教えられれば不快であることを留意しなければなりません。たとえ100%善意によるものだとしても、教える側は相手に受け入れ態勢を整えてもらうよう手配する必要があります。

 教えたがりは「必要な情報を教えるのだから聞き入れるべきだ」と考えがちですが、それは相手へ不快感を与えていい免罪符とは決してなりません。相手の人格や人権を尊重し、相手が受け入れられるように環境整備をしてアサーティブに伝えるのは教えたがり側の責務です。

 

 ようはキャッチボールと同じです。言葉のキャッチボールという比喩は実に適切ですね。

 聞かれてもいないのに勝手に教えるという行為は、相手にキャッチボールをすると伝えずに剛速球を投げるようなものです。それは当然相手も怒りますし、下手をすれば怪我をさせてしまいます。

 まずはキャッチボールをすることを伝えて、相手が同意してグローブを構えていることを確認し、相手がキャッチできるボールを、相手がキャッチしやすい位置に投げる。

 そういった配慮をして初めて人に何かを教えるということができるのであり、それを怠ってはボールを使った他者への攻撃と同義になります。

 

結言

 必要な時に適切な方法で必要なだけの情報を教える、というのは本当に難しいことです。

 ただでさえ教えられる行為は不快であるというのに、そういった配慮の必要性に無自覚な教えたがりが多いことが、教えたがりが世の人々からうざがられる原因かと考えます。

 

 

余談

「あなたのためを思って」

という発言をして押し付けてくる人の多くがどうにもキナ臭いのは、思ってと言いつつ相手の想いに配慮していないのが透けて見えるからなのかもしれません。本当に相手のためを思っているのだったら、言葉を押し売るのではなく、相手が受け取りやすいよう行動や態度に配慮して示すものです。

 

経験則からの提言

 最後に、教えたがりの形態ではなく教えたがりが話す中身に関して一言。

 成功談を教えたがる人の話は話半分で聞けば良いでしょう。その目的の大半は教育ではなく自慢に過ぎません。そもそも成功は再現性が低く、同じようにやったからといって成功するとは限りませんので、真面目に聞く必要は無いです。

 失敗談を教えたがる人の話は価値があるので素直に聞いた方が良いでしょう。自慢ではなく同じ失敗を避けることができるようにという親切心の場合が多いですし、失敗は再現性が高いので同じ失敗を避けるためにも聞いておいたほうがお得です。

 快・不快の論はさておき、自らの役に立つ教えたがりを選定して活用する、そういう姿勢もありかと思います。