忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

公共的理性を損ねた政治活動が民主主義を阻害する

 

 特定の政治家を見てストレスを感じるのは赤信号。

 

 今回は極めて辛口です。

 

政治の本質

 「政治とは妥協の産物であり、可能性の芸術である」とは、ビスマルクが言ったとされた言葉です。

 実際は微妙に違うらしく、以下が正しいとされています。

Politics is the art of the possible, the attainable — the art of the next best.

政治とは、可能なことを実現する技術であり、次善の策を見極める芸術である。

 

 政治は常に理想を実現できるとは限らず、最善で不可能な理想ではなく次善でも可能な現実に根ざして合意を形成することが政治の本質であり、「落としどころ」を見つけていく営みであることを適切に表現しています。

 政治とは言い換えれば『利害関係者の価値を相対化し、利害を調整して意思決定をすること』です。双方が都合や利害を提示し合い、それを相対化して判定した上で、折り合いがつかなければ双方が納得いく代替案を調整し実行することが政治です。

 

 つまり政治とは日常であり、人々の生活に直結したものです。

 そのため、いつまでも意思決定を引き伸ばすことは許されず、むしろ可能な限り素早く合意形成がなされなければ日々の損失は膨らむ一方となります。

 率直に言って、千年後のことよりも今の問題に対処することが政治です。

 未来のために現在の人々の今を犠牲にするための合意形成が政治的に難しいことは誰しも理解しているかと思います。それは傲慢や無知などが原因ではなく、単純に政治の領分ではないためです。政治は日常、すなわち現在を扱うものであり、未来への献身と犠牲はむしろ哲学や宗教の担当区分となります。

 

公共的理性

 『利害関係者の価値を相対化し、利害を調整して意思決定をすること』のうち、後者がより政治的行為に見えるかもしれませんが、実際には前者が非常に重要です。

 価値を相対化するとは、すなわち自分自身を客観に置くことを意味します。自分の利益や自分の感情を絶対的なものとせず、それらを他と同一の視点で見られるようでなければ正しく政治をすることはできません。

 政治は日常ですが私事ではなく、誰もが私事のために私益ばかりを追求して奪い合わないようにするための手段こそが政治であり、政治は明確に公事です。

 

 より具体的に言えば、『特定の政治家』を見て好悪に囚われたりストレスを感じたりするような状態は非常に宜しくありません。どの政治家かと個人名を出すつもりはありませんが、それは自身の感情の価値を相対化できていない公私混同であり、適切な政治的意思決定が行える状態に無いと言えます。

 個人や特定のグループの利害や偏見ではなく社会全体の利益を考えた理性的な議論を通して合意形成を目指す考え方を公共的理性と言いますが、特定の政治家を見た程度でストレスを感じる心境は公共的理性が損なわれた状態に陥っていると言えるでしょう。

 もちろん人間だれしも好悪の情はありますし、万人に好かれる政治家は当然いませんが、特定の政治家を見てストレスを感じる時点ですでに党派性や偏見に囚われており、公共からの逸脱が生じています。

 

 政治に興味を持っていない人は政治家へ怒りを感じませんので、特定の政治家に対して怒りを感じる人はむしろ政治的関心の高い人です。

 しかし厳しい表現となりますが、政治への関心の深さに反比例して政治への理解が浅いと言えます。

 よく「投票率が低いから政治が悪くなる」と言った言説を見かけますが、関心が無い人が政治環境へ与える影響など微々たるものです。それよりも政治への無知によって公共的理性に従えない人が私的な怒りのまま対話や妥協を捨て去ることで政治環境は破壊されます。政治を壊すのは政治へ関心を持っているのに公共的理性を持てない人怒りのまま冒進する無知なる者に他なりません。

 

結言

 怒りは問題の存在に気付かせて行動を促す点では原動力となりますが、怒りは問題の可視化や問題提起までであり、対話と調整、妥協と合意といった現実の政治行為に必要なのは私的な怒りではなく、冷静さ・忍耐・寛容といった公的な理性に他なりません。

 すなわち怒りに流されず、怒りを公共的理性へと昇華できて初めて適切な政治活動が可能です。怒りのままに政治の場を踏み荒らすことは無関心よりも効率的に政治環境を破壊します