ふとした思い付き。
活字はいいものなのです
私はもっと人々に活字へ触れてもらいたく活字を布教する習性があります。あ、違いました。悪癖があります。自覚しているなら辞めればいいのにね。まあ大したことはしておらず、知人に本を紹介したり、ブログで活字について述べたりする程度です。
ただの活字中毒ではありますが、好きなものを布教すること自体は節度さえ保っていれば悪いことではないはずです。恐らく。節度さえ保っていれば、ええ。
・・・気に入った本は2冊買って1冊を布教用にするのはちょっと度を過ぎている気がしますけど。あ、いえ、昔の話です。今はもう本は1冊しか買いません。
(嘘は付いていないが、嘘である。電子書籍で買って読んで気に入った本を、布教用に書籍で1冊買うことがある)
最近読んだ文章を考えてみると・・・あれ?
週に数冊の本を読んでいる程度の軽度活字中毒患者ではありますが、先日、ふと気付きました。
「最近一番読んでいるのは、自分で書いた文章じゃなかろうか?」
公開ブログという人様が読めるところで文章を発信する心構えとして、最低限ある程度の品質を確保しなければならないだろうという気持ちがあります。確保できているかどうかは別の話です!(熱弁)
そのため、その日書いた文章は校正がてら読み返しますし、明日投稿する文章は前日に念の為誤字脱字のチェックも兼ねて読み返します。投稿済みの記事も当時何を書いたか確認するために読み返しますし、そもそも備忘録的な意味も込めて書いているので昔の記事をなんとはなしに読み返します。
そんなわけで、ここ最近で一番読んでいる文章は自ら書いた文章の可能性があるのです。
活字入門にはおすすめかもしれない
自ら書いた文章というのは実に読みやすいものです。
なにせ内容は自らの考えそのままですので容易に腑に落ちるどころかこの上なく同意できる内容ばかりですし、構成は自身が理解しやすい順に並んでいるので納得感が強いですし、文体は自らが理解しやすいものですので引っ掛かるところがありません。
自分で書いた文章というのはこの世で最もスラスラ読める文章ではないでしょうか?
活字に忌避感を持つ人がいる理由の一つとして、活字を読むには慣れが必要だという点があります。活字コンテンツは映像コンテンツとは違い情報量が少なく行間を読む想像力と思考力が必要です。そもそも漢字が難しくて読めないといった参入障壁もあります。
しかし自分で書いた文章であれば行間を読み解く必要はありません。なにせ書いた本人からすれば行間にどんな思いがあるかは手に取るように分かるのですから。「作者の気持ちを答えよ」と言われても満点を取れるでしょう。
漢字も障害にはなりません。なにせ知っている漢字しか使われていないのですから。
活字・読書の楽しみからは少しズレてしまうかもしれませんが、活字に慣れるための入門として、自分で書いて自分で読む、そんな地産地消型の訓練は意外と有効かもしれません。
鶏が先か、卵が先か
まあ、この思い付きには1点致命的な欠陥があります。
活字に慣れていない人は文章を書くことにも慣れていない、ということです。
普段本を読まず活字へ触れる機会が少ない人に「さあ文章を書けほら書けすぐ書け今書け」とけしかけたとて、それが上手くいくことはまずありえないでしょう。
このThe chicken or the egg(鶏が先か、卵が先か)、ブートストラップ問題、すなわち活字に慣れるためには活字を書けばいいが活字を書くには活字に慣れている必要があるという因果関係のジレンマを解消せねばなりません。
・・・無理やり本を読ませるしかないかな。こう、ルドヴィコ療法的なやり方で・・・(節度が保たれていない)(活字が嫌いになるだけ)
大人になってから読書が好きになる方法を知りたい
私の両親は本が好きで、家の書棚には山ほど本がありましたし図書館によく連れていってもらったりと子どもの頃から本が身近にあったため、私自身も読書をするのが自然な習慣になっています。
ただ、そのせいで「大人に本を読ませる方法」というのがさっぱり思いつかないのです。どうすれば大人になってからでも読書習慣を身に付けることができるのか、何か良い方法があれば知りたいものです。