忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

字が汚いことは悪いことかも知れない

 あえてオブラートに包んで言えば、私の書く字は凄く個性的です。未知の外国語か、もしくは暗号化された錬金術師の日記か、はたまたヴォイニッチ手稿かと見紛うほどです。『ミミズののたくるよう』という言葉がまさにぴったりであり、可読性が著しく劣るとても読み辛い字を書くことを得意としています。

 ・・・なんて、前向きな表現で言ってみましたが、ただ字が汚いだけです。ポジティブであればいいというわけではない生きた見本として今後も前向きだけを取り得に頑張っていきたいと思います。いえ、字を綺麗に書くことも頑張ります、はい。結果が伴うかはともかく。

 私の書く字は判読性もミミズの如く地を這うレベルであり、後から自分で見てもまったく読めません。誤読なんてレベルではなく、そもそも脳が文字だと認識しないのです。数日前の手書きメモを見るとちょっとしたロールシャッハテストをやっているような気分になります。

 そんなわけで今回は字の綺麗さ・汚さについて軽い気持ちで話をしましょう。

 

あえて善悪で語ってみる

 字が綺麗であることは得かと言われれば、多少の得はあると思いますがそこまでではないかもしれません。字が綺麗であったためしがないので私には分かりませんけど。字が綺麗な人は凄いなー、頭良さそうだなー、育ちが良いのかなー、と傍から見ていて思います。何はともあれ字が綺麗であれば少なくとも損は無いでしょう。

 反面、字が汚いことで得をすることは絶対に無く、むしろ確実に損をすることは間違いありません。これは経験上断定します。字が綺麗であることを善と断定することはしませんが、字が汚いことは明確に悪です。自虐的ではありますがあえて悪だと断定してみます。字が汚いというのは悪いことなのです。極悪とまではいかずとも小悪党です。

 

 現代社会ではコンピュータの進歩と普及によって手書きの機会が少なくなりました。私のような「字が下手族」からすれば良い傾向です。しかしそれでもなお未だやむを得ず致し方なく手書きが必要な場面が残存しています。

 そのような場面において手書きで文字を書くという行為は往々にして署名や情報の伝達、すなわち誰かとのコミュニケーションを主目的としています。つまり汚い字はコミュニケーションを阻害する悪いものです。別に個人の記録やメモにおいて字が汚かろうとどうでもいいのですが、コミュニケーションではダメです。相手に情報を伝えることがコミュニケーションの目的であり、伝わらない汚い字を書くことはコミュニケーションの目的達成を困難にし相手に苦痛を強いる悪事です。字が汚い人はその点を反省しなければいけません。はい、反省します。ごめんなさい。

 

私の字が汚い理由

 字が汚い理由は人それぞれだと思います。

 私の両親は字を綺麗に書かせようと訓練してくれました。夏休みの読書感想文を「汚くてもいいからせめて読める字を書け!」と父に破り捨てられたくらいにはそこそこ厳しく躾けられたものです。それでもなお字は汚いままです。不思議なことに。

 いや、実は理由は分かっています、字を書く速度が速すぎるせいだというのは。時間を掛けて丁寧に書けばいいものを、脳の揮発性が高くゆっくり書いていると何を書こうと思っていたかを忘れてしまうため、焦って書き殴るから字が汚いのです。

 事前に文章を考えておきゆっくりと書き綴るのであれば「もしかしたらこれは日本語のつもりなのかもしれない」と僅かながら思える程度の文字を書けます。しかし見本無しにソラで考えて文章を書こうとするともう駄目です。少し書いては飛ばして脱字をし、さらに書き進めれば「確立」が「砬」となるように漢字が結合し、誰にも読めない支離滅裂な文字列を生成してしまいます。英語だってブロック体で書いているつもりなのに筆記体のようになる始末。

 言葉が浮かんでくる速度に対して私の手が遅いのが悪いと思いません?もちろん思いませんよね。はい、反省します。

 

 

余談

 弊社はレトロな部分が多々あり、未だ手書きの書類がたくさんあります。早くやめて欲しいです。職場では必死に電子化を推し進めています。紙の削減やら作業性の改善やら適当なお題目を述べてはいますが、実際の動機はまあ、そういうことです。