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議論における印象操作の是非:共同体意識の喪失

 議論において「相手方の悪魔化は避けるべきだ」という提言が時折為される理由について考察をしていきます。

 

悪魔化(Demonization)とは

 日本語での「悪魔化」という言葉に厳密な定義はありませんが、Demonizationは一神教や異教が、多神教の神々を悪魔(デーモン/Demon)と決めつけることを意味する言葉です。自身の信仰において信ずる神のみが絶対的に善なる存在であり、それ以外の他所の神を名乗るモノ共は悪魔である、という理屈です。

 現代における悪魔化という言葉は政治的な意味を含むようになり、他の個人やグループ、政治団体を『悪』と認定する行動を指す言葉として用いられるようになりました。

 Demonizationを直訳すると「悪魔化」としか言えないのですが、元々は宗教的、特にキリスト教圏で用いられていた言葉であったため、日本人にとって「悪魔」というのはあまり馴染まない気はします。

 この言葉はつまるところ、相手を悪いものだと認定して中傷や人格攻撃をする行為を批判する時に用いる言葉です。

 

印象操作の是非

 もう少し一般化して言えば悪魔化というのは「まるでヒトラーのような行いだ」というように相手を悪いものと重ね合わせて悪印象を与える行為を指し、プロパガンダでいうところのネーム・コーリング、つまりはレッテル貼りの一種です。つまりは印象操作以外の何物でもありません。

 実のところ印象操作とは大変に有効な手法であり、古代より印象操作による様々なプロパガンダが用いられてきていることは事実です。時に有益でもあるため、必ずしも悪魔化やレッテル貼りといった手法を使うべきではないとまでは言えません。

 印象操作による宣伝戦略の成功例として度々取り上げられているタバコが良い事例でしょう。戦後や昭和の時代には「自由」や「リラックス」というような好印象を持たれていたタバコですが、様々な医学的研究により害悪であることが分かったタバコを止めさせるため、現在は「臭い」や「健康に悪い」というような悪印象を持たれるよう様々な印象操作が行われています。

 他にも暴走族を珍走団と言い換えるネットスラングも同様に印象操作です。暴走という言葉を珍走とすることで、ダサくてカッコ悪くてみっともない印象を持たせることが目的です。

 ホワイトプロパガンダという言葉があるように、適切な印象操作というものも存在します。よって全ての印象操作が悪いというわけでは決してありません。

 

 とはいえ逆に有効であるからこそ使うべきでない時もあります。

 議論において印象操作を用いることは適切ではありません。

 議論とは互いの意見を述べ合い批評し合い論じ合うことです。目的はより良い解決方法の模索や利害の調整であり、より良い意見を取り入れるために互いの意見を集めて検討するのであって、相手の意を潰して自らの意を通すことが主目的ではありません。

 それに対して印象操作は自らの意を通し相手の意を潰すことが目的の行為であり、それは議論の趣旨を損ねてしまうことから控えるべき行いです。

 

議論における印象操作の副作用

 中傷や人格攻撃、悪魔化といった印象操作は確かに強力で、論戦で優位に立てるような錯覚があります。しかしこれらを議論で用いることには大きな副作用が存在します。

 それは共同体意識の喪失です。

 前述したように議論の目的はより良い解決方法の模索や利害の調整であり、つまり本質的に議論を行う相手とは共同体内での仲間内です。

 それに対して中傷や人格攻撃、悪魔化といった印象操作の目的は敵対者への攻撃です。本来は仲間内で行うはずの話し合いにおいて敵対関係で取るような行動をするということは、相手を共同体の一員として認めていないことを示すようなものです。

 つまり、相手に対して印象操作を用いて攻撃するということは互いの共同体意識を喪失する危険があるということです。それは社会や集団の分断を招き、同じ共同体の仲間ではなく敵対へと互いの関係性を変えてしまいます。

 そのような状況で議論が成り立つはずもなく、そうなってしまっては共同体をより良くしようという意識は損なわれ、相手を打ち倒すことが主目的にすり替わってしまうことでしょう。

 

 例えば10人で何かをするとして、7:3で意見が割れたとします。

 その際にどうすれば10の力を上手く発揮できるかを話し合うのが議論です。

 対して3の意見や7の意見を攻撃して打ち倒そうとする時に取る行動の一つが印象操作です。しかし、たとえそれが上手くいったとしても最大で発揮できる能力は3や7に落ち込んでしまい、決して10に届くことはありません。それは共同体にとっても望ましくありませんし、双方にとってもやはり望ましくないでしょう。だからこそ議論における印象操作は非合理的で非人間的なため避けるべきだという提言が為されます。

 

 

余談

 前提として「そもそも共同体意識を人はどう持っているか」について語るべきでした。失敗。

 人によって共同体意識のレンジには違いがあり、個人から家族、サークルや会社、国家や人類全体と、実に幅が違うものです。まずはその差異があることと、時にレンジを変える必要があることへの理解が必要です。考えが整理できたら書きます。

 

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