忘れん坊の外部記憶域

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陰謀論だという指摘の無意味

 先日の記事では陰謀論そのものに問題があるのではなく人に自分の意見を押し付けて強制することで迷惑を掛けることが問題なのだと述べました。

 今回はもう少し陰謀論と議論について書いてみたいと思います。

 

安易なレッテル貼りは議論を崩壊させる

 基本的に陰謀論という言葉はあまり良い意味合いで使われることはなく、むしろ批判的な意図を持って用いられます。負の印象を持つ型にはめ込むことで相手の意見を封殺する効果があることから印象操作・レッテル貼りだと言えます。

 レッテル貼りは議論においてあまり好まれる手法とは言えず、議論の参加者としては欠格です。たとえ相手に謬見があるとしてもその誤りを指摘すればよいのであり、レッテル貼りをして相手の意見を全否定することの適切な理由とはなりません。レッテル貼りを行った時点で建設的な意見交換は存在し得ず、議論の体を為さなくなり誹謗飛び交う言い争いへと劣化するでしょう。

 

議論の余地が無い時に議論をすべきではない

 意見を語る側も語られる側も双方が気を付けなければいけない点ですが、相手がこちらの意見を聞かないのであればそもそも議論をすべきではありません。意見の交換が成り立たない状態で双方が自論のみを通そうとするのは議論とは呼べず、ただの言い争いに発展するだけです。それは生産的なものとは決してなり得ないどころか、互いの関係性を破綻させる危険すらあります。

 陰謀論に限らない話ですが、「相手の意見は誤っている、正しいことを教導してやろう」という行動は、相手が聞く耳を持たない限りは残念ながら善意や正義感の有無に関わらずほぼ無意味に終わります。何故ならば意見の交換が成り立たない状態というのは互いに自らの正しさを確信し、相手が誤っていると確信している状態だからです。そのような凝り固まった意見をぶつけ合っては意見の変容など望むべくもなく、互いに傷付くのみとなります。議論や意見交換は気体や液体のように行われるものであり、固体同士をぶつけ合うことではないのです。

 そのような場合に優先すべきは議論や意見交換ではなく、受容や共感、同意や関心といった態度を示し、相手がこちらの意見を受け入れられるような状態を作ることです。

 また、先に述べたように、これは双方に言える話です。

 陰謀論と否定されかねない世間一般と異なる意見を持っている人は、その見解を相手に伝えるのであればまずは受け入れてもらえる状況を作らなければいけません。なにせ世間一般と異なる時点で多くの人は聞く耳を持たない状況なのですから、その意見が伝わらないのはむしろ当然なのです。相手が馬鹿だから理解できない、相手は何かに騙されている、といったように相手方の落ち度を考えるのは誤りです。ただただ単純に、異なる意見を聞くという状態が整っていないという場合が多いのです。

 同様に、世間一般と異なる意見を持っている人の考えを変えようと思っている人は正面を切ってその異なる意見を否定すべきではありません。相手はその考えに確信を抱いている状態で、他の意見を聞く耳を持っていない状態がほとんどです。まずはこちらの意見を聞くことが出来る環境を整えることを優先しなければいけません。

 

何を持って陰謀論とする?

 そもそも論になりますが、陰謀論とは一体なんでしょう?以前の記事で紹介した定義、「偶然の一致によって起きた出来事を何者かの策謀によるものだと考える」とした場合、大変に極めて曲解を含めた愚見ではありますが、神の御心のままにという考えは陰謀論に該当してしまうのではないかと考えてしまいます。いえ、なにも宗教とは陰謀論であるなんてそんな大それたおっかない戯言を語りたいわけではなく、相手の意見を陰謀論だと定義するのは案外難しいということです。ただそれだけです。あー、もう、なんて怖いことを言うんだ私は。

 消極的事実の証明的なものですが、「何者かの策謀が存在しない」ことを証明するのはほぼ不可能です。それはつまり陰謀論を否定することも相当な物証が無い限り不可能だということです。だからこそオッカムの剃刀やハンロンの剃刀といった思考が必要になります。何はともあれ、無闇矢鱈に陰謀論を否定するのは労多く功少なしとなることでしょう。

 

結論

 以上より、謬見に対しては誤っている箇所を指摘すればよいのであり、陰謀論という安易なレッテル貼りは使用すべきではないと考えます。また互いに素直な気持ちで相手の意見を受け入れる姿勢が必要であり、頑なに自論を曲げず押し付けるような行いは望ましくないでしょう。それはどのような状況においても良い結果をもたらすことはありません。それは異なる意見を語る者、聞く者、双方に言えることです。

 

余談

 前回の記事でも書きましたが、陰謀論だろうがなんだろうが意見を相手に押し付けて強制することこそが害悪です。誰が何をどう考えていようと、公共性を保ち、道理に従い、人の情を理解し、他者の権利を侵害しないのであれば自由です。

 自由とはなんとも、制約の多い難しいものなのです。それは自由なのだろうかという疑問が湧く程度に。