年に数回くらいは『政教分離』がSNSのトレンドに上がっているのを見かけます。
そんな、微妙にグレーな話題を取り上げましょう。
前提
政教分離原則とは宗教団体が国家権力を行使することを否定するものではなく、国家権力が特定の宗教団体を優遇したり弾圧することを否定する原則です。
よって宗教団体が政党を組んだり宗教家が政治へ口出しすることを拒絶するものではありません。
公人であっても信教の自由は保有しており、公人や政党が特定の宗教を信仰することも問題ありません。特定の宗教を信仰している人から選挙権・被選挙権を取り上げるような行いは憲法で保障された信教の自由の侵害となります。制限されているのは信教そのものではなく、政治権力による宗教の優遇や弾圧です。
日本では太平洋戦争における国家神道のトラウマや戦後のカルト宗教による諸問題などがあるため政治と宗教の接近があまり好まれてはいませんが、他国を見ると、ドイツにおける二大政党の一つであり世界的に有名な元首相のメルケルが所属しているドイツキリスト教民主同盟、聖書に手を置いて宣誓をするアメリカ大統領、イングランド国教会のように、政治と宗教が繋がっている事例は先進国ですらいくつもあります。
そのため、政治と宗教の完全な分離を安易に謳うことは他国に喧嘩を売りかねない言説ですので注意が必要です。
もちろんその言説は他者の信教の自由や権利を阻害しない限りにおいては問題ありません。政治と宗教の接近を好まないこと自体は個人の主張として尊重されるべきものです。
ある種の宗教家は政治に口を出したがる
ただ、とても難しいこととして、政治が宗教から距離を置くことは現実的に可能ですしそれこそが政教分離ではありますが、宗教が政治との距離を詰めたがる問題があります。
まず、宗教と一口に言っても様々なものがあり、それらを大雑把に分類すると二種類です。
一つはユダヤ教や上座部仏教のように「厳密な教えに基づいて帰依した人のみを救う宗教」、もう一つはキリスト教や大乗仏教のように「教えを広めて衆生の救済を目指す宗教」です。
前者は基本的に政治への介入をあまり望みません。政治は俗世の穢れであり、むしろ忌避すべき対象です。
対して後者は政治への積極的な介入を望む場合があります。彼らの目的は教えを広めて人々に幸福をもたらすことであり、そして政治の最たる目的はアリストテレスが述べたように「人々の幸福の促進」です。
よって後者の宗教家からすれば政治に参入することこそが衆生を救済する最適な手段となります。彼らからすれば教えを広めることも政治に口を出すことも衆生の救済が目的であり、功徳となる行為に他なりません。様々な宗教団体が政党を立ち上げるのはまさしくこのような理屈によります。
人々を救いたいと思う気持ち。
これ自体は明確に善意だと言えます。
それがたとえ独善であったとしても、善意です。
結言
つまるところ、教えを広める系の宗教は衆生を救済するため、必然的に政治との距離を詰めたがる傾向を持ちます。
そしてそれは大抵の場合で善意が根底です。善意が根底だからこそ、それを止めるのはなかなかに難しいものがあります。
善意を無下にすることは簡単ですが、善意を無下にされた人はとてもストレスを感じます。そして人はストレスを感じると攻撃的になります。その結果、善意を無下にされた人は攻撃的な反応を示すことがしばしば起こります。それは時に悲惨な事態を招くこともあるでしょう。
だからこそ、宗教家の善意の取り扱いは存外に難しいことです。少なくとも政治の世界から安易に蹴り出せばいいわけではありません。それは個人の権利や信教の自由を侵害する行為であり人権の面からも許容されませんし、人間心理の面からも適切な行いとはなりません。
政治と宗教の分離は、安易に語ることが不適切な程度にはとてもデリケートで、非常に難しい問題だと言えます。
余談
ここまで述べてきたように政治と宗教の完全な分離が難しいことは重々承知の上で、個人的には政治と宗教は距離を置いたほうが良い派です。
正直なところ画一的な救いを是とすることには不賛同であり、幸福とは人それぞれ多様な形を持っていると考えています。