忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

善意に対する感度の差は常日頃意識する必要がある

 本当に大したことをしていないのに、ご近所さんからお礼にと立派なお菓子をいただいてしまいました。ちょっと困惑。

「助けてください!」

「しゃあねえなぁ、めんどくせえ・・・」

という倦怠もなく、

「助けてください!」

「何!困っているのか!任せろ!」

という熱量もなく、

「助けてください!」

「ほいほーい」

くらいの感覚だったので、実に温度差があります。

 

 金銭負担をさせてしまったことが申し訳ないので受け取りたくない気持ちが山々と言えども、しかし善意を行動で表せる素敵な人の素敵な善意を無下にするのもまた気が引けるため、

「あらあらこれはまたどうもすみませんねーありがとうございますー気にしないでいいのにーお互い様だからねーまた何かありましたらお気軽にどうぞー」

という、脳内記憶に住まうオバチャンムーブを呼び起こして切り抜けました。サラリーマン精神やオジチャン精神だと言動が重苦しくなりますので、こういう時はオバチャン精神がベストだと信じています。ええ、なんとも不思議な信仰です。

 

善意に対する感度

 人が何にどの程度善意を持ったり感謝をするかは人それぞれです。ある人が大したことないと思っていてもそれが万人に当てはまるわけではなく、別の人からすれば極めて大きな意味を持っている場合は多々あります。

 例えば落とし物を探すとして、無くした側はそれが両親の形見であり見つけてくれた人に物凄く感謝したとしても、探すのを手伝った側からすればちょっと可処分時間を消費しただけですので感謝されるほどでもない、というような場合は良くあることでしょう。

 それぞれの収支の価値が異なり、またそれぞれの背景事情が周知されているわけではない以上、提供と被提供の側で認識に差が出るのはやむを得ないものです。

 

助け合いに対する考え方

 自分で言うのもなんですが、私は困っている人を助けることをまったく負担だと思いません。自分の時間や金銭の価値を低く見積もっているわけではなく、人が助け合うことの価値を高く見積もっているからです。

 その理由として、人は自然や祖先、天や他者から様々な恩恵を「いただいて」おり、それに感謝をして、足るを知り、必要以上のものは返す。神道やアイヌ、インディアンのような素朴なアニミズム的発想が自身の根底にあるからだと分析しています。

 もちろん仏教的発想として自灯明の精神は有していますので、自身の支えとなるのは自身でありまずは何をおいても自身を頼みとすべきだとは考えていますが、逆に言えば自身をすでに頼れる人間は余剰分を他者に返すのもまた善なり、です。

 人は助け合わなければならないまでの極論に至ると世の中窮屈ですが、助け合うことは価値が高いと考えるならば妥当だろうという、プラグマティズムなのか功利主義なのかもよく分からないごった煮思想とも言えます。

 

鈍い人が気を付けるべきこと

 私のような人間はこの善意への感度差があることを特に意識して気を付けなければなりません。このような価値基準は自身が善意での行動をしやすくなるという利点があるものの、人の善意に鈍くなるという欠点を持っているからです。

 

 単純に「善意とはそれぞれが余剰を持ち合い提供し合うものである」という世界観を抱くのは危険であるとまで言えます。

 もしかすると人から受けた善意が『その人が血を吐き絞り出すようにして精神をすり減らし肉体を酷使して捻出した資源』かもしれないということを見落としてしまうことにつながりかねません。

 自分が気軽に出来ることが人にも出来ると思ったら大間違いです

 私も一応はそれを理解して人の善意を受ける際には最大限感謝をするよう努力していますが、冒頭に書いたようにどうしても温度差を感じるわけです。

 いえ、この違和感を失った時が「人の善意を軽く考えてしまう私」という愚劣な存在に成り果てた証左ということで、むしろこの温度差こそが重要なのかもしれません。

 

結言

 今回は善意サイドに絞って記述しましたが、悪意も同様だと考えます。この感度のズレは時に致命的なすれ違いを生むので、よくよく気をつけなければいけないでしょう。

 

 

余談

 もぐもぐ、あ、この果物ゼリー美味しい!嬉しい!(雑念の無いただただ純粋な感情)