今を努力しない理由にはならないだろう。
視点の高低は価値の高低ではない
たまには真面目風で前向き風な話をしてみましょう。
まず、長い目で見れば人は必ず死にます。
これは自然の摂理です。
では人はいずれ死ぬのだから何かを成し遂げたり築き上げたりする行動や今日のご飯を食べることですら無駄かと言えば、それはどの視点で見るかによって変わります。
高い視点、それこそ地球や世界の視点から見れば無駄です。高い視点から見れば一人の人間なんてちっぽけなものであり、その人がどんな人生を歩むとも歩まずとも大した影響はありません。
しかし私たちは地球でも世界でもありません。ただの一人の人間です。
よってそのような高い視点での見解を個人に適用しても仕方がないでしょう。
「大は小を兼ねる」とはいえ、この場合の巨視的な高い位置からの視点は微視的な個人を優越するわけでもなく、マクロな視点は何か大きな意味を持っているように思えますがそれは錯覚に過ぎません。嫌味な言い方をすればただの現実逃避です。
いずれ死ぬ命はマクロな地球や世界にとっては価値が無いものですが、ミクロな個人個人からすれば大きな価値があるものであり、視点の高低は価値の高低と同じではないことを留意する必要があります。
同様に、いずれ多くの仕事がAIに取って代わられるとしてもそれはマクロな視点に過ぎず、今日のご飯を食べなければならないミクロな私たちが今を努力しない理由にはなりません。
たとえ明日無くなる仕事であっても、いつかAIに取って代わられるとしても、それをやることが今日の糧になるのであればミクロな個人にとっては価値があります。いずれ死ぬ命が、しかし今の私たちにとっては大切なものであるのと同じようにです。
やっぱり微積分は必要な知識だ
少し理系的な考え方を補記してみましょう。
「いずれ無くなるのだから価値が無い」とする考え方は物事を微分し過ぎです。
微分とは大雑把に言えば何かしらの全体を細かく刻んでいって瞬間の変化を知るための計算です。反対に積分とは小さな変化を積み上げていって全体を知るための計算です。
あまり分かりやすいたとえ話ではありませんが、ランニングをしている人がいて、その時間を細かく刻んでいってその人がどのくらいの速度が出ているかを計算するのが微分、その時間を積み上げていってその人がどのくらいの距離を走ってきたかを計算するのが積分です。
「いずれ無くなるのだから価値が無い」とする考え方は無くなった瞬間の量しか見ていないので、実に微分的だと言えます。
しかし実際にはそれが無くなるまでに積み上げてきた様々なものがあり、人の一生であろうと何かの物事であろうと、その意味を決めるのは瞬間ではなくそこまでの積み重ねです。
下の雑な図で言えば、微分的に点を見るのではなく、積分的に面積を見るべきです。
(雑な図)
つまりは力積と同じで、力と作用時間の積にこそ意味があります。
例えば受験生が平日に家で3時間勉強するとして、その3時間だけを見てもあまり意味がありません。10日続けて30時間であることと100日続けて300時間であれば後者のほうが価値があるでしょう。どれだけ勉強を継続したかが重要であり、それは積分的なものの見方に他なりません。
まあ理系的な考え方ではありますが、微積分は知っておいたほうがいい知識です。義務教育の範囲ではないとはいえ微積分が文系理系問わず履修範囲なのは便利で有益で役に立つ数学だからだと私は思います。
結言
前半と後半で大きく論調を変えてみましたが、何はともあれ国語的にも算数的にも私たちには今を努力しない理由はありません。未来がどうなろうとです。