日々の生活や社会は問題解決の連続です。そのため如何に問題を解決するかがクローズアップされがちですが、問題と原因を適切に捉えることが出来なければ正しい解決方法にも至れないため、まずは何よりもモノの見方が重要です。
今回は事例を基に、問題の捉え方や原因の追究方法を説明していきましょう。
問題と原因を捉える際の手順
例として、先日取り上げたハンガーマップ、これは2022年の報告において日本で栄養不足に陥っている人の比率が2.5%以下から3.2%に上がったという内容でした。
この『日本で栄養不足の比率が高まっている』という問題を解決するためには原因を特定する必要がありますが、その原因には様々な理由を推測できるかと思います。例えばコロナ禍による生活環境の変化、収入の変化、失業率の変化、物価の変化、食生活の変化、といったものが理由として推測できるでしょう。
この段階で多数の仮説を立てることは大変に有用です。問題と原因を適切に捉えるためにはファクトベース、すなわち事実に基づいた思考が重要ではありますが、現実においてデータが手元に十分揃っているということはまずあり得ません。ファクトベースで思考するためのファクトがそもそも足りない状態であり、まだボンヤリとした問題に輪郭を与えるためには多数のデータを集める必要があります。
しかし闇雲にデータを集めるのは非効率的ですし適切なデータを集めることができるとも限りません。よってデータ収集の指針として事前に複数の仮説を検証し、それを元にデータを集めることが有効となります。
次に収集したデータを用いて仮説を検証する必要があります。まだ問題の原因と同定されていない仮説は仮説に過ぎず、ファクトに基づかないものは棄却しなければなりません。問題解決思考におけるファクトベースが必要になるのはこの段階からです。
この段階で重要なのは仮説に固執しない姿勢です。仮説が実際に正しいかどうかはデータが決めることであり、ここに個人の主義主張やイデオロギーが介在する余地は皆無と言えます。こうであって欲しい、こうだと私は思う、という認知バイアスは容易にデータの読み取り方を歪めてしまうことから、虚心坦懐で仮説とデータに向き合わなければなりません。
上記の例で言えば、まずは栄養不足の経年データを集めて、単年での事象なのか傾向があるのかを把握する必要があります。
統計データを見ると、ほとんどの年で2.5%以下を保っていたのに対して、2011年、2020年、2021年では2.5%以上になっています。このデータから、栄養不足の比率が高まるのは経済動向や環境の要因が大きいことが読み解けます。つまり東日本大震災のような災害やコロナ禍が原因の可能性が高いと言えるでしょう。それ以外の食生活の変化のような仮説はこれで除外されます。何故ならばこれは単年で変動するようなものではなく、変化の傾向を伴うものだからです。
ここで注意すべきはやはり認知バイアスです。例として、「栄養不足の比率が増加した原因は昨今の物価上昇だ」という意見を見掛けました。確かに物価の変化は誰もが実感的に感じており、2022年は特に顕著でしょう。しかし現在私たちが実感している物価の変化は今回の栄養不足の原因ではありません。何故ならばこのハンガーマップのデータは2021年までの統計データをまとめて2022年に発表したものだからです。よって2022年現在に実感している物価の変化はデータの範囲外です。実感はとても強力な認知バイアスになり得るという良い例と言えます。
さて、ここまでくれば後は簡単で、最後にやることは残った仮説の反証集めです。必要なのは残った仮説を補強する根拠を増やすことではなく、それを否定するデータを探すことです。
物事を絶対的に正しいと証明することは誰にもできません。私たち人間が論理的にできるのは「間違っている可能性」を減らすことだけです。だからこそ仮説の頑強さを確かにするためには正しいだろうデータを複数集めることではなく、それを否定すべきデータが少なくとも存在しないだろう状態にすることが効果的です。
これは単純に、『カラスが黒いことを証明するために全てのカラスを調べる』よりは『違う色のカラスを探す』ほうがよっぽど良いという話です。今回の事例であれば「日本人の生活環境はコロナ禍で変化していない」というデータがもしもあれば、どれだけコロナ禍による栄養不足の理由を積み上げたとしても意味が無いのです。
このようにデータを集めていくことで、コロナ禍において失業率は急増していないこと、貯蓄度合いは下がっていないこと、収入の急減も見られないこと、特に高齢者の食生活に変化が出ていること、といったデータ群から、高齢者の生活環境の変化が主原因だと読み解くことができます。
問題や原因に固執しないこと
ここからがどちらかというと本題ですが、このような問題解決の思考方法において忘れてはいけないのが『問題や原因に固執しないこと』です。
モノを見る時にはマクロ(巨視)とミクロ(微視)の双方で捉える必要があります。どちらかに偏ってしまうと必ず何かしらを見落としてしまうことから、重要なのは双方を理解し、ベストプラクティスを求めることだと考えます。
引き続き上記の例を用いると、「日本の栄養不足」という問題は「コロナ禍による高齢者の生活環境の変化」が主原因だと考えます。これはマクロ的な視点で正しいでしょう。
しかし、「だから収入の減少や失業率、母子家庭の貧困は問題ではない」となるのは誤りです。ミクロで見ればコロナ禍によって収入が減少したり失業したり貧困になっている人は必ず存在します。今回の問題の原因ではないだけで、それらは問題そのものではあるのです。マクロ的な統計から導き出される問題や原因に捉われてしまうとこのようなミクロな問題を見落としかねません。
同様に、ミクロの視点だけに捉われるのも望ましくありません。確かにそれらは問題ではありますが、だからといって統計に表れるような大きな問題に対処しなくてもいいというわけではないからです。
私たちの社会には無限のリソースが無い以上、正しくそれぞれの問題を捉えて、どれにどれだけリソースを割り振るかということを民主的に定めるためには、マクロとミクロ双方の視点を持つ必要があります。
結言
仏教における説法に「弾琴のたとえ」というものがあります。
(大まかな流れ)※うろ覚え
釈迦のある弟子は誰よりも厳しく修行に励む熱心な若者だったが、それでも悟りに至れないことに悩んでいた。もう修行を止めてしまおうかと思っている弟子に対して釈迦はこう聞いた。
「お前は琴が得意だったね。琴の弦は強く張ったほうがいいのだろうか?」
「いえ、あまり張り過ぎると良い音は出ません」
「じゃあなるべく緩めたほうがいいのだろうか?」
「いえ、それでもやはり良い音は出ません」
「じゃあどうすればいいのだろう?」
「程よく、緩まないように、しかし張り過ぎないようにするのが理想です」
「修行も同じことじゃなかろうか」
弟子は得心して修行に励み、悟りに至ることができた。
細かい話はお坊さんに聞いてもらったほうが良いです。つまりは物事には加減が重要だという話です。
物事の捉え方も同じで、マクロに見ればいいわけでもなく、ミクロに見ればいいわけでもなく、どちらも程よく理解し、適切な視点で見ること、すなわちヘーゲルの弁証法で言うところのジンテーゼ、仏教で言うところの中道(2つの物事の中間ではなく、それらの矛盾対立を超えたより良いところ)を目指すのが良いと考えます。