今や広く使われるようになった外来語であるエビデンス。
「証拠」や「根拠」と和訳されていますが、元の英単語evidenceの意味からしても
Facts or observations presented in support of an assertion
ある主張を裏付けるために提示された事実または観察
であって、別にエビデンスなんてカタカナ語でなくとも「証拠」や「根拠」でいいじゃないかと思うばかりですがそれはさておき。
文明の発展は特に科学技術や論理の分野において中世以前のような「誰が言っているか」という人に依拠する根拠を一部否定し、「事実に基づくか」というエビデンスを重視するようになりました。
昨今では情報化社会が進むことによって個々人が双方向的に無数の情報を入出力できるようになったことから、その傾向はより増しています。誰もがなんでも言えるのであれば、誰が言ったかよりもそれが事実に基づくかのほうが重要になるのはある種の必然と言えるでしょう。
今回はそんなエビデンスに関する愚考を提示していきます。
意見と主張の違い
大雑把な分類ですが、人が情報を発信する際の形態には『意見』と『主張』があります。『意見』とは自身の考えを述べること、『主張』とは自身の意見を言い張ることです。
もう少し具体的な表現をすれば、意見とは発表に近似するもので、相手に情報が伝わったかどうかは問わず情報を発信することが主目的です。
対して主張とはプレゼンに近似するもので、こちらの意見を相手に伝えて、その意見に対する理解を求めたり同意を得たりといった相手の行動変化が主目的です。
雑な例を出せば、
「この料理、辛い!」と自らの思いを発信するのが意見、
「この料理、私は辛いと思うのですがいかがでしょう?」と自らの意見に対して相手へ理解や同意を要求するのが主張です。
主張は根拠(エビデンス)に基づく必要がある
主張は相手にどう情報が伝わったかが肝要であり、意見のように発信するだけではなく主張者と同質の情報を相手に受信させなければならないため、客観的なエビデンスが不可欠です。
生物は感覚器で得た情報を脳で処理するものであり、その感性は人それぞれです。先の例で言えば、「この料理、辛いと思うのですがいかがでしょう?」とただ言われても、実際にどの程度の辛さを感じているかは相手に伝わりませんし、辛さへの感度は人それぞれ異なります。
それでも主張をして相手に理解や同意を要求するのであれば、否応なしに必要となるのが客観的に検証可能な一連の事実、すなわちエビデンスです。
辛さの例で言えば、「この料理はスコヴィル値が50万を超えているので辛いと言って差し支えないと思います」というエビデンスに基づいた主張であれば、「それならばドラゴンズ・ブレスやブート・ジョロキアほどではないけどハバネロよりは高いので、辛いと言えますね」という同意をスムーズに得ることができます。
このように、主張によって自身の意見を通すためには相手が理解できる表現や言葉、相手が分かる尺度や事実、すなわち客観的なエビデンスが必要になります。
意見に対してエビデンスを求める意味はない
これは逆に言えば、相手の説得や同意を求めていない意見にはエビデンスは不要ということでもあります。人は誰だって「この料理、辛い!」という意見を述べる自由がありますし、それはその個人がそう思ったという感想です。
そのような個人の感性に基づく意見に対してエビデンスを要求するのは無意味どころか迷惑を掛けることになります。前述したように個々人の感性は人それぞれであって、エビデンスの出しようがないものだからです。無いものを出せと言われて愉快な気持ちになる人はいないでしょう。
よって、エビデンスが無いことを指摘するならば相手の発信の種類を見てからにすべきです。それが他者への同意等を求める主張であればエビデンスが必要であり、個人の感想である意見であればエビデンスは不要です。
異なる取り扱いが必要な『共感』
ここで話をややこしくしてくれるのが意見とも主張とも異なる第3の発信、『共感』です。
『共感』は主張と同様に他者へ理解や同意を求めるものですが、その対象は発信した情報ではなく発信者の感性に対してです。感性に対するものであるため意見と同様にエビデンスは存在しません。
「この料理、私は辛いと思うのですがいかがでしょう?」における共感は「その料理が辛いかどうかの事実」ではなく「私は辛いと思っている」ことに対する理解や同意を求めています。だからこそエビデンスが存在せず、また存在しなくても発信は成り立ちます。
話がややこしくなるのは、『共感』は相手への行動を要求するという点において、発信の体裁が『主張』とほぼ同じだからです。情報の受信者は相手が発信しているのが『主張』なのか『共感』なのかを理解して回答を行う必要があります。それがすれ違ってしまった場合、残念ながらコミュニケーションは上手くいかないことでしょう。
共感の取り扱いについて
共感は私たちが豊かな社会を構成するのに不可欠な要素です。ロジックに従ってエビデンスを揃えれば道理が通るわけでもありませんし、イノベーションや連帯感が生まれるわけでもありません。よって話がややこしくなるからと言って共感を不要だとはまったく思いません。
但しその取扱いには若干の注意が必要であることを幾人かの学者が指摘しており、私もそれには同意見です。
共感そのものは不可欠であるものの、その強要にはリスクが伴います。極端な話、「私の感性に同調しろ」とむやみに振り回すのは、相手に無理やり意志の変更を強制するという点である種の暴力と似通ったものになりかねません。
私の拙い文章力では共感の問題点について上手く説明できないため、アダム・スミスの「道徳感情論」やポール・ブルームの「反共感論」をお読みいただくか、もしくは以下の解説サイトを紹介いたします。
結言
意見や感性に対してエビデンスを求めるのはナンセンスです。
主張はエビデンスを基に行う必要があります。
主張と共感は似て非なるものですので留意が必要です。