忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

主張において、エビデンスに対する意識がなぜ必要か

 過去にも言及したことがあるように、個人の意見や感想にはエビデンスは不要です。個人の感性は人それぞれで定量化できないものですので、そもそもエビデンスの出しようもありません。

 

 しかし文章でおぜぜを頂戴している人がメディアを通して見解を述べるのであればそれは主張であり、エビデンスを重視する必要があります。

 新聞やwebメディア等でエビデンスも無しに物事を主張している記事を残念ながら時々見かけるため、主張においてエビデンスに対する意識がなぜ必要かへの見解を述べていきます。

 ただし科学的方法に関して深堀りしていくと科学哲学の沼に嵌っていき終わりが無くなるので、本記事は触りの部分だけで終わらせる予定です。

 

エビデンスがないことの問題

 主張の目的は他者に意思を伝達して他者の行動変容を図ることであり、意見や感想とは異なり他者へ情報を伝達して他者が同じように理解するための共通言語である論理に基づいて構築されている必要があります。

 そして論理の構築においては強固なエビデンスが重要です。

 演繹で行うにしても帰納で行うにしても変わりません。演繹の基とする普遍的命題が誤っていればそこから出力される個別的命題も誤りとなりますし、帰納の基とする個別事象が誤っていればそこから導き出される法則も誤りとなる以上、基となるエビデンスの強度には重々配慮する必要があります。

 つまるところ論理的思考とは積み木のようなものであり、土台が崩れてしまってはその後に積み重ねた全ても棄却しなければならないものです。よって論理構築においては積み重ねるエビデンスの強度がとても重要になります。

 

 これは個人のレベルで見ると軽く思えることかもしれませんが、実際はそんな個人の信用問題や面子で収まる範囲の話ではありません

 私たちの社会が依って立つ学問や知識、研究や理論はポッと沸いて出てきた個別で分離されたものではなく、人々の英知が積み重ねてきたものであり、そして今なお数多の人々が積み重ね続けて構築している巨人です。

 その巨人にエビデンスの不確かな主張を積み重ねることは御法度です。もしもそれが誤っていたら、そのさらに上へ積み上げた全ての主張、人々が掛けた時間と労力と人生の全てが崩れ去ります。それは後の世代に対する致命的な裏切り、許されざる英知の浪費に他なりません。

 だからこそアカデミックな環境における学者の研究不正は同僚からも世間からも強く批判されますし、不正をした人は知性を尊ぶ社会集団から追放されます。

 

 つまりエビデンスも無しに主張することは個人の信用問題なんて次元の話ではなく、その主張を基に新たな論理を展開していく後々の人々や、その主張に影響を受けた全ての人々に対して迷惑を掛ける行為です。だからこそ主張の屋台骨であるエビデンスの存在と強度が極めて重要となります。

 

結言

 一つの論文の不正は一つの論文の範囲では済まず、それを引用していた多数の論文へ影響を与えることから許されざる行為です。

 同様に、不確かなエビデンスに基づいた主張はそれを引用して論理を構築する後々の人に対する不誠実な行為です。適当な主張は自らの信用だけでなく言論全体への信用すら損ねる以上、控えなければなりません。

 もちろん人には限度があり、必ずしもエビデンスの強度を高められるわけではありませんし、誤って不確かなエビデンスを用いてしまうこともあるでしょう。

 しかし主張をするのであれば少なくとも強固なエビデンスを用いることへの努力を払う必要があります。

 

 

余談

 うちのブログは意見と主張が取っ散らかっていて申し訳ないのですが、私が何かしら論考した結果を主張する際には根拠となるデータや理論、言説や見解を引用しています。

 しかし、この記事はあえてどこからも引用していません。科学哲学の話でありエビデンスの重要性であればいくらでも論文や実例がありますが、あえて記載していません。

 さて、この"エビデンスがない私の主張”がどの程度の説得力を持つか、そして意味があるものなのか、それを考えてみてもらえると幸いです。