ゆるーい自己分析ですが、私が書く文章は、不思議なことに、読点が多いです。
・・・まあここまで極端に読点をぶち込むことは稀ではありますが、まずセンテンス1つ取ってもほぼ必ず読点を入れ込んでいますし、パラグラフを総体で見れば読点だらけになっています。
これは半分くらいは意図的で残り半分は無意識的です。
私は常体と敬体で書く文章を明確に”別の読み物”として扱っています。
読点が多い理由
日本語の”読む”は複数の意味をもっていますが、私の常体での文章は「文字や文章、図などを見て、その意味・内容を理解する」意味での読み物として書いており、敬体での文章は「文字で書かれたものを一字一字声に出して言う」意味での読み物として書いています。どちらも”読む”ことには変わりありませんが、若干のニュアンスの違いを常体と敬体によって使い分けているというわけです。
常体で文章を書く際は一連の文字情報として読み手が受け取りやすいように読点を減らして一文での連結を保つのに対して、敬体で文章を書く際は読み手が口に出して読むことを前提として、あまり長くならないようセンテンス内でも区切りを設けています。
つまり、敬体での文章における読点は私にとって音楽記号のブレス(∨)に近い扱いです。文章の切れ目や区切りと同時に思考や呼吸の息継ぎも意味しています。
敬体の文章を口に出して読む前提と捉えているのは元演劇部の演劇的発想かもしれません。
要するに台本です。
テレビドラマや映画では口頭で解説せずとも映像的に場面を説明しやすいものですし、マイクで小さな声を拾うこともできますので長台詞が容易に成り立ちます。役者が椅子に座って心情や理屈を延々と語っていたとしても視聴者は役者が喋っている内容に集中することができますので、退屈な絵ではありますが少なくとも意味不明になることはありません。
対して演劇の舞台はテレビや映画ほど場面転換が容易ではなく、マイクで小さな声を拾うこともできませんし、カメラが近付くようなこともできません。そのため役者は様々な動きをもって観客とコミュニケーションを図りつつ台詞を紡いでいきます。人は聞くことと見ることを同時に行うのがそこまで得意ではありませんので、動き回って演じる役者が長台詞を喋ろうものなら何を言っているかまず頭に入りません。
だからこそ演劇では長台詞があまり多用されません。演出的に有効な場合もありますので使わないわけではありませんが、多用すると演者にも観客にも負担が大きいため、長台詞はここぞという時にスポットを当てて使うべき大技です。長台詞を小技として使える演出家は相当上手い人に限られます。素人がやれば「遠く小さく見える棒立ちの役者が延々と何かしらを喋っているだけ」の意味不明な絵面に成り果てるだけです。
つまり、私の敬体における読点の多用は長台詞を避けるための息継ぎです。
・・・何が「つまり」なのかは自分でも分かりませんが。
結言
だからなんだという話ではあります。
深い理由はなく、ただの説明でした。
「文字で書かれたものを一字一字声に出して言う」意味での読みやすさを求めた結果、「文字や文章、図などを見て、その意味・内容を理解する」意味での読みやすさは損ねているかもしれません。