忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

年度末なので頭の中の棚卸

 昨日の記事は翻訳ばかりとはいえなかなかの文章量だったため指が疲れました。1記事に10000文字以上を費やすのは毎日更新しているブログにとってはとてもヘビィです、ええ。

 今回は箸休め的に、頭の中で考えていることをざっくばらんに棚卸していきます。

 

『共感』をテーマに記事を書いてみた

 現代は「共感の時代」と一部では呼ばれており、対人関係、マーケティング、行動経済学、その他さまざまな分野で『共感』の価値と重要性が説かれています。

 そんな時代に『共感』に対して僅かばかりでも否定的な言説を弄するのはとてもリスキーなのですが、ちょっとアダム・スミスの『道徳感情論』やポール・ブルームの『反共感論』をベースに記事を書いてみたので、後日投稿します。

 最初は書評を書こうかと思いましたが、結局はいつも通り引用と持論の羅列になってしまいました。

 

 世間で論争になっている様々な社会問題、その多くは「共感のスポットライト」の観点で見ればある程度輪郭が見えてきます。

 内容はそこそこにヘビィです。4000文字を超えたので量的にもヘビィです。ちゃんと考えて書かないと長くなるのが問題です。

 最近また文章量が増えてきて冗長になりがちなので、もう少しスリムに整理した文章を書けるよう努力します。

 

非武装論と武装論の隔絶について語る・・・か否か

 軍事系の議論で致命的にすれ違うのが非武装論と武装論の対立だと思っています。互いの前提があまりにも違い過ぎて、そもそも議論にすらならないという。

 その隔絶について、なぜそれが生じるのか、どうすれば隔絶を解消できるのかを書きたいのですが、内容の難しさもさることながら双方の論者からぶん殴られそうな気すらするので、書くべきかどうか悩み中です。

 下書きにタイトルだけ置いてからすでに一か月。どうしたものか。

 

そろそろカテゴリーを増やす?

 この駄ブログでは「政治」「経済」「軍事」「社会問題」「仕事」「国際」「言論」「技術」辺りを取り扱った記事が多いのですが、そろそろ心機一転、異なるジャンルに言及するのもいいかもしれないと思ったり思わなかったりします。どうにも堅苦しすぎるので、もっと軽いジャンルを増やしてみるとかをしてみたいような、そうでもないような。

 

 とはいえ、ブログで書けるような軽いジャンルとしても、そこそこのめり込んで時間を使っているものでないと・・・思い付くのは「漫画」くらいですかね?漫画は年間数百冊は読んでいますので。

 最近読んだ漫画は「ダーウィン事変」と「売国機関」ですが、まあどちらも語ろうと思えば2時間くらいは語れると思います。

 ただ、漫画は画像がないとイメージが湧きにくいので、ブログで取り上げるならコマのキャプチャを貼ったほうが良さそうなのですが、著作権法を守るために引用元を明示したりと手間が多いので正直面倒・・・

 やるとしても相当気が向いたらになりそうです。

 

社会を変革するのは意思(will)か、技術(technology)か

 「ダーウィン事変」で思い出したのですが、ストーリーの中で動物解放を求めてテロを行ったキャラクターの台詞に次のようなものがあります。

 

「一体どうやれば奴隷主の反感を買わないように奴隷制に反対できるの?」

「結局、遵法闘争や非暴力では世界は変わらない。直接行動こそ正義を達成するための最も効率的な方法だと。暴力を絶対悪のように言うことこそひどい偽善ですよ」

 

 これは暴力による社会変革を肯定するには充分な説得力があるような気もするのですが、個人的にはちょっと違う考えを持ちました。

 もちろん社会を変革するには人の意思(will)による行動が重要なトリガーであることは疑いようのない事実です。ただ、その前提というかベースの部分には技術(technology)が不可欠だと思っています。

 ストーリー中に例として挙げられているアメリカの黒人奴隷解放についても、前提条件として、アメリカ北部で商工業が発展した結果”単純労働者ではなく所定のスキルを持った技能者と生産された商品を購入する所得を持った購買者が必要になった”、すなわち奴隷労働制の意味が無くなるような技術革新が先行してあったことに大きな意味があると捉えています。

 もしも北部で商工業が発展しておらず南部と同様にプランテーションが主流であれば奴隷解放は現実的に行えなかったと思いますし、そもそも奴隷解放を名目とした内戦すら起こらなかったのではないか、そう考えることもできるのではないでしょうか。

 奴隷解放運動に尽力していた当時の人々の意味や価値を下げたいのではなく、社会を変革するためには下地である技術(technology)をまずは整えなければならないことも重要だ、という意味です。むしろ技術(technology)さえあれば新たな仕組みを目指して頑張る人々の背中を押すことにもつながる、そう考えます。

 昨今の事例で考えても、なぜ化石燃料の使用量が減らないかと言えばそれを代替する技術がまだ不十分であるからであり、人の意思(will)だけではどうにもならないからでしょう。もしも化石燃料よりも安価で持続性が高いエネルギー技術が発明されれば、それこそあっという間に社会変革が進んで化石燃料は使われなくなるでしょう。

 畜産や肉食も同様、それ以外の安価で環境に優しく美味しいものが開発されれば、やはり人々はそちらに流れていくことでしょう。

 そう考えると、社会を変革するのは意思(will)か、それとも技術(technology)か、と考えた時、人々の意思(will)に働きかけるため暴力的な活動を行うよりも、技術(technology)にリソースを注ぐことがまずは重要ではないかと愚考します。

 

 このテーマについてはもう少し考えを深めて、考えが整理できたら記事にします。