忘れん坊の外部記憶域

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正義に客観性を:『正義感』の暴走を防ぐために

 『正義中毒』や『正義マン』など、世の中には正義の暴走を戒める言葉が存在しています。

 なぜ正義が暴走するかについては様々な識者がそれぞれの見解を述べていますが、僭越ながら私も一つ、思っているところを述べていきます。

 そこまで新規性の無い論考ではありますが、ご容赦願います。

 

【単語+感】の意味

 日本語における【単語+感】は、その単語の状態が現実に生じているか否かを問わず、その単語の状態にあるという感覚の有無を意味する言葉です。

 いくつか例を挙げてみましょう。

 【劣等感】は実際に劣等かどうかは別に、自身が劣等な状態にあると感じていることを意味しています。

 【疾走感】も同様に、実際に行動や状態が素早く疾走しているかどうかは別に、自身が疾走している状態にあると感じていることを意味しています。

 【安定感】も実際に安定しているかどうかではなく、安定的な状態にあると感じていることを意味します。

 

 今回テーマとしている正義にも同様、【正義感】という表現があります。

 これは上述した例と同様に【単語+感】であり、実際に正義かどうかとは別に、自身が正義だと感じていることを意味します

 

 先んじて結論から述べてしまえば、正義の暴走とは実際のところ『正義感』の暴走であり、個人の感じている正義と他者の考える正義に不一致が生じた場合が正義の暴走と呼べる状態になるのだと考えます。

 

正義のラベルは誰が貼るのか

 正義は誰が認定するかと言えば、それは個人ではありません。正義とは倫理的・道徳的観念であり、つまり社会全体、皆で決めることです。

 さらに言えば、たとえ不正義や悪と対立する位置に立ったからといって、自動的に正義と認定されるわけではありません。何故ならば不正義や悪と対立する不正義や悪も存在し得るからです。

 

 もちろん個人が自身を『正義』と名乗ること自体は自由です。

 しかしそれが社会全体、皆で決める『正義』と一致するかは別です。

 ある男が「俺はハンサムだ」と思うのは自由ですが、しかし他者がその男をハンサムだと思うかは強制できるものではないことと同じです。

 正義は社会的に決まる概念である以上、容姿や能力よりもよほど大勢からの承認が必要なものです。たとえ自身を正義と名乗ったとしても、その時点でそこに存在するのは他者からの承認を経ていない『自称正義』の『正義感』に過ぎません。

 

『正義感』の暴走

 ようするに、正義の暴走と呼ばれるものは実際のところ他者からの承認を経ずに自身が正義だと感じている『正義感』の暴走だと言えます。

 そう考えれば、何故暴走するのかも単純な話だと言えるでしょう。正義感とは実際に正義かどうかとは別に、自身が正義だと感じていることを意味している以上、それが他者や社会全体が考える正義と合致しない場合が生じるのは必然だとすら言えます。

 

 「正義」という概念的なものだから少し分かり難くなるだけです。

 先に述べた例のように、「ハンサム」で置き換えてみましょう。

 「俺は俺のことをハンサムだと思う。だから俺はハンサムだ。お前たちが俺のことをハンサムだと思わないのはおかしい。俺はハンサムだと扱われるべきだ。何故ならば俺はハンサムだからだ」

 何を言っているんだこいつは、という話です。彼をハンサムだと扱うかどうかは他者の判断に依存するものであり、自己認識を他者に強要する権利はありません。

 『正義感』によって暴走している人も構造的には同じです。

 自身のことを正義だと感じているかどうかと、実際にそれが正義かどうかには明白な乖離があります。そして世の中に求められているのは自己認識による正義感ではなく実際の正義です。よって、正義が暴走しているのではなく、個人の自分勝手な正義感が暴走していることが問題です。

 

結言

 必要なのは正義を抑えることではなく、自身の抱いた『正義感』が客観的に見て正義と言えるかどうかを見直すことです。「自分が正義だと思うから正義だ」という理屈は通らないことを留意しなければなりません。