忘れん坊の外部記憶域

興味を持ったことについて書き散らしています。

人の努力に口を出すべきではない

 努力に関する、特に奇抜な視点でもなんでもない話。

 

他者には測定不可能

 「努力が足りない」

 「努力不足だ」

 時々見かける言葉ですが、どうにも好みではありません。

 人の努力に対して口を出すべきではないと考えているためです。努力の絶対値は他者と比較できるものではありませんし、他者によって相対化できるものでもありません。努力が目に見えない計量不可のものである以上、他者がその量の多寡に口を挟むべきではないでしょう。

 

 まず努力による絶対値の差、これは人の持つ能力やキャパシティによって異なります。100の能力を持つ人が努力して100を発揮するのと、10の能力を持つ人が努力して10を発揮するのでは、出力の差は10倍も違いますが、その差を比較しても意味がありません。

 10の能力の人に対して努力して100を出せというほうが無理筋の話です。人には得手不得手、得意不得意が存在するものであり、誰もが同じ出力を出せると考えるのは高出力な人間の傲慢に過ぎません。

 

 では相対的な比較はできるか、つまり100の能力を持つ人が10や50ではなく100を出しているか、それを他者が判断できるかどうかですが、これもやはり不可能です。他者の能力を具体的に把握し得ることができる人は存在しません。

 

 そもそも、実際の出力は単一能力によるものではなく、総じて複合的なものです。

 例えば物凄い事務処理能力を持つ人が、しかしその能力を長時間継続できない場合もあります。これは【事務処理能力】に合わせて【継続力】が必要な事例だからです。

 しかし多くの場合、人は単一の能力しか見えていません。特に目には見えない【継続力】や【回復力】、【集中力】や【注意力】といった必須技能は無視されがちです。本当はこれらの能力も合わせて努力が判定されるべきだというのに。

 

 つまり「努力不足」という発言はその言葉に具体的な根拠を持つものではなく、実際にできるかどうかを具体的に勘案せず能力の異なる個々人を勝手に比較しているか、もしくは他者の能力を勝手に類推し根拠も無しに責め立てているかのどちらかでしかありません。

 

努力の評価

 努力が足りているかどうかを比較すること。それができるのは唯一、己のみです。

 自身の能力であれば日常の生活から限界値をある程度は把握しているものであり、また自身の過去についても熟知しています。

 そのため過去の自分に対して今回の自分が全力を出していたか、それとも手を抜いていたか、つまり努力が相対的に足りていたかを自身だけが唯一真っ当に把握することができるのであり、努力の比較に意味があるのは自身に対してのみです。

 そうして比較をした結果、心が緩み努力が不足していたと感じるのであればそれを恥じ、できる限りを尽くし努力が充分であったと感じるならばそれを誇ればよいでしょう。

 なんにせよ、努力は他者からどうこう言われるような類の性質ではなく、また他者と比較できるようなものでもないのだから、努力の多寡については自身についてのみ、そして自身の内側だけで完結させるべきだと考えます。

 

結言

 努力をすることはとても立派な、誇るべきことです。

 しかし、だからこそ、他者に対して「立派であれ」と押し付けるようなことは控えたほうが良いと考えます。それはどうにも傲慢さが滲み出てしまう疎むべき感情に他なりません。

 もちろん他者の努力不足を感じてしまうことが誰しもあるものです。それは避けようがない感情だと思います。しかしそういう時こそ、それを内に抑え込み外には出さない、そういった努力があって然るべきだと考えます。安易に人の努力を非難するのは、それこそ努力不足との誹りを受けかねないものです。

 

 

余談

 少し残酷な補足ですが、これはつまり「私は努力している」という言葉も無意味だということになります。人は他者の努力量を測定することが出来ない以上、それは自己申告に過ぎません。