日本は失敗を許容しない国。
日本は失敗したら終わりの国。
このような表現が用いられることもあるかと思います。
少し古典的な表現ですが、切腹のような価値観が日本にはある、そういった話です。
今回は、命を失ったり手足を失ったりするような類の物理的な失敗ではなく、社会的な失敗に関しての考えを整理していきます。
実際と認識の違い
「日本は失敗したら終わり」という言葉では”日本”と限定されていますが、とはいえ他国ではどの程度失敗が許容されるかの数値比較があるわけでもなく、実際にそうだと断定するだけの根拠はない言説です。
また他国と同様、日本にも生活保護や各種制度があり、何かしら社会的な失敗を犯した人でも助けるためのセーフティネットは存在しています。
そのため日本では失敗したら終わりなのかどうかは具体的な論拠によって論証されているとは言えません。
むしろ実際と認識には大きな乖離があります。
例えばホームレス一つ取っても、日本は世界と比較すれば極めて少ない人数しかおらず、困窮者の保護や補助が他国よりは機能しています。日本は社会的な失敗によって多くのものを失ったとしても、少なくとも衣食住はなんとかなる国です。
ただ、実際がどうかは別として、少なくとも「日本は失敗したら終わり」といった雰囲気や空気が存在していると認識している日本人は多いと思います。
社会の要求か、個人の欲求か
実際問題として、社会的な失敗をしたら何が失われるのでしょう?
収入や資産、名誉や面子、立場や利権など、失敗の程度によって失われるものは様々ですが、失敗によって失われるのは個々人の所有している有形無形の財産です。
それらが失われた場合、終わりなのでしょうか?
別に収入や資産が減ったからといって死ぬわけではありませんし、名誉や面子を損なったからといって死ぬわけではありませんし、立場や利権を失ったからといって死ぬわけではありません。失ったことによって誰かが何かをとやかく言おうと、やはりそれでも死ぬわけではありません。
つまり、社会に雰囲気や空気が存在していると思っていることとは裏腹に、失った末に終わりを求めているのは社会の要求ではなく、個人の欲求です。
アイデンティティの所在
失敗によって失われるもの、もっと言えば”失えるもの”は、全て外部のものです。
収入や資産、名誉や面子、立場や利権などは全て「私という個人」に張り付いているレッテルや成果に過ぎず、社会的な失敗によって「私」そのものが失われることはありません。
「私」の持っているスマートフォンは「私」ですか?
「私」の着ている服は「私」ですか?
「私」の住んでいる家は「私」ですか?
「私」の資産は「私」ですか?
「私」の評判は「私」ですか?
「私」の名前は株式会社○○○の◇◇◇部ですか?
もちろん、そうではありません。
「私という個人」を説明する時に、他者と比較して分かりやすい外的なものを用いることはあります。しかしそれは比較が容易だからというだけの理由だけであり、それら外的なものが「私」とイコールでは決してありません。
そういった”失えるもの”である外部と自身を同一視し、それらにアイデンティティを依存することはあまり望ましくないと考えます。
アイデンティティを外部に依存する場合、常日頃から手放す恐怖が付き纏うことになりますし、それらを失わないために変革や挑戦に足を踏み出すことも難しくなります。
そして何よりも、実際に失ってしまった場合は『終わり』になってしまうリスクを持ってしまいます。
自己紹介のプロトコルに関する有名な話をしましょう。
日本の社会人が自己紹介をする時は、まず肩書や社名を告げた後に名前を名乗ります。
それに対して欧米ではまず自身の名前や技能を話した後、必要であれば社名や部署を名乗ります。
この話は、必ずしも意識的ではないにせよ、日本人が肩書や所属する集団、すなわち外部にアイデンティティを置きがちである一つの典型例ではないかと私は考えます。
結言
肩書が変わっても、会社を辞めても、他の何を失ったとしても、アイデンティティが内部にあれば「私」を失うことはなく、終わりにする必要はありません。
しかし外部にのみアイデンティティを依存していると、それらが失われた場合には「終わり」にする以外の選択肢までもが同時に失われてしまいます。
もちろん外部にアイデンティティを持つこと自体は必ずしも負の側面だけを持つものでもなく、共同体への献身や身内への愛情、責任感や誇りなど様々なものを生み出します。よって必ずしも外部にアイデンティティを置いてはいけないということではありません。
ただ、外部にだけ依存するのではなく、アイデンティティは内外共に保有することが望ましいと考えます。
余談
先日、「SNSなどで自身の精神疾患をプロフィールに書く人がいるのは何故だろう?」と、ふと気になったので人に聞いてみました。曰く、「他者と異なる点であり、一種のアイデンティティだからではないか」という意見でした。
もちろん全員に当てはまるわけではないでしょうが、そういった傾向を持っている人もいらっしゃるかと思います。
それが悪いことだと言いたいわけではありません。アイデンティティは誰にだって必要なものです。
ただ、そのアイデンティティは外的なものであり、そこにアイデンティティを置いてしまうと手放せなくなってしまうリスクが高まるのではないか、精神疾患の治療とは遠い結果を招きやしないかと、少し不安に思いました。