古くは対面や匿名掲示板、現代ではSNSで繰り広げられている口論・レスバトルは非生産的な行為であるとの認識は世間一般的なものかと思われます。
しかしそれでも日々様々な場所でバトルが繰り広げられている、その欲求の意味と原動力は奈辺にあるのでしょう?
正義の武器を振るう悪人は、悪に他ならない
レスバトルが生じる流れは様々ですが、一つの典型例として「誰かの誤情報を厳しい論調で指摘すること」を起因に着火する状況をよく見かけます。
これの難しい点として、指摘自体は正当です。デマゴギーや流言飛語は正しい情報へ訂正される必要があり、訂正を行う行為自体は強い正当性、極言してしまえば正義を持っていると言えます。
ただ、その正義が道を誤らせます。
正義があれば暴力を振るっていい、とは限らないためです。
前提として、言葉とは火や刃物のような手段・道具です。
よって言葉の暴力という言葉があるように振るい方によっては容易に暴力となります。
社会は暴力の連鎖を避けるために正義や正当性による枷を暴力に与えています。不正・不当に基づいて振るわれる暴力は悪であり、適正な域に収まっていれば正義です。少し口さがない表現を用いる人であればこれを必要悪と呼称するかもしれません。
そして、適切に分離しなければならないこととして「指摘する行為」と「行為者」はイコールではありません。指摘が正義だからといって行為者が無選別に正義の立ち位置へ立てるわけではなく、ここでは明確な峻別が必要です。
特に例を出さなくても簡単な話ではありますが、簡単な例を出しましょう。
例えば警察は社会にとって正義だと認定されているからこそ拳銃のような暴力の所有が認められています。しかし警察が自儘に振る舞い正義に悖る行為を行ってもよい、との免罪符が与えられているわけではないようにです。
人はつい正義の道具を手にすると自らも正義になったと誤認しがちなものです。
しかし正義の道具を持つ者が正義とは限りません。その違いを重々承知していないと、「他者の誤りや過ち、デマや誤情報を訂正しているのだからオレは正当であり正義だ、だから攻撃的な表現を用いたって構わないし誹謗中傷だって許される」と思い込みかねません。それは『悪人が握るニューナンブ』のようなもので、ただの悪であることは疑いようもないでしょう。
原動力と根源
そもそも基本的に暴力は社会にとって悪とされていますので、口論やレスバトルは少なくとも善の側ではないはずです。
それなのになぜ人は正義の言説を握りしめてレスバトルに興じるのか。
結局のところ、それは擦られ過ぎてあまりにも多義的と成り果てた言葉である「承認欲求」を用いることが妥当なのでしょう。
なにせ『他人と口論をして打ち負かすことの欲求』は「生理的欲求」「安全欲求」「所属と愛の欲求」「自己実現の欲求」のいずれにも当てはまらない以上、承認欲求で説明する以外はありません。
承認欲求は他者からの尊重と自己からの尊重の両面が存在しています。
よって雑に述べるのであれば、何も衆人環視の下でレスバトルに勝つ必要もなく、自らが他者よりも優位であると認識さえできればそれで承認欲求は満たされます。だからこそ匿名掲示板や誰も見ていないSNSの片隅などでも自身の自身による自身のための自己満足を生み出すために無数のレスバトルが行われているのでしょう。
それに意味がどの程度あるかはさておき、ある意味で他者を捻じ伏せることに快楽を覚えるタイプの人にとっては自らへの利得が存在する建設的な行為なのかもしれません。
まあ、趣味は人それぞれです。
結言
結局は巷で言われているように、承認欲求を満たすことが原動力なのでしょう。
もちろんデマゴギーや流言飛語は訂正されなければならない以上ある程度は必要悪として社会から許容されており、それがレスバトルが無くならない理由ではあるのでしょう。
ただ、過剰となれば必要悪どころかただの悪に堕するものであり、レスバトルに興じる趣味のある方はその点を重々留意しておいたほうがいいかとは思います。