たまには愚痴っぽい話を。
”たまに”かどうかは疑問ですが、それはまあ、人それぞれの感覚です。”まもなく”や”少々”と同じようなもので、受け取り方には個人差がありますので。
どうでもいい話ですが、「愚痴」って凄い言葉ですよね。
言っても仕方がないことをわざわざ口に出して言うなんて愚かな行為であることは間違いありませんが、それにしたって「愚」と「痴」を組み合わせるなんてどれだけ「おろか」なんだって話です。とても辛辣な漢字の組み合わせです。
愚痴は必ずしも悪くない
私はブログで愚痴っぽい話をしないよう心掛けているつもりですが、毎日記事を投稿しているとさすがに精神や肉体の疲労と連動して感情が文章に乗ってしまい、記事が愚痴っぽくなることがあります。
ただ、愚痴は必ずしも悪いものではありません。愚痴をこぼさずに悪感情を内側に抱え込んでいると、その感情の重みで心が潰れることもありますし、黒い淀みを抱えていては自らの心が侵食されて汚れていくことにもなります。悪感情は自らの内側に貯め込まないよう、折を見て排出していかなければなりません。
理想としてはそういった穢れを受け取らない正常で清浄な周囲環境を得ることが望ましいものですが、それはさすがにユートピア思想が過ぎるというものです。
また、誰もが強力な自浄作用によって悪感情を内部で昇華したり、そもそも悪感情を抱かないような精神状態を維持できるとは限りません。ほぼ全ての人は自らの心へ否応なしに積もりゆく悪感情・悪意と付き合っていく必要があります。
よって私たちは日々溜まりゆく悪感情の穢れを時々は廃棄するよう心掛ける必要があり、そのためにも愚痴は一つの廃棄手段として肯定されるものだと考えます。
愚痴で気を付けること
言っても仕方がないことをわざわざ口に出して言う行為が愚痴ですが、それが個人でこっそりと行われて完結していれば何も問題はありません。愚痴が問題視されるのは他者にこぼす場合です。まあ、大抵の場合で愚痴は人にこぼすことで解消されることが多いため、だから愚痴は問題視されがちなのではありますが。
厳しい話ですが、愚痴は悪感情を吐露して外部に排出している行為である自覚を持つことが必要です。人に向けて汚れた液体をぶちまけるが如き行為に他ならず、それを被った人も汚れてしまいます。
ものすごく酷い例えですが、お手洗いは一人で入り、一人で済ますものじゃないですか。それを外で、人が見えるところで、あるいは人に向けて発信する人はそうそう居ないですし、やるべきではないわけで。例えはアレですが、愚痴も同じようなものです。
ただ、あえて言いますが、そうしなければどうにもならない人は、そうすべきです。個人で悪感情を処理しきれない人は他者に浄化してもらう他なく、頼れる味方を持つことは恥じることない適切な方法だと言えます。悪感情に抱え込み圧し潰されて自らを破滅させてしまうことはまったくもって望ましい結末ではありません。
個人的にですが、ブログやSNSで愚痴をこぼすことは愚痴の処理の仕方としては適切だと思っています。面と向かって愚痴を受け止めてくれる度量を持った相手を得ることは必ずしも出来ませんが、ブログやSNSでは不特定多数に非特異的な発信をしていることから「受け取りたくない人は受け取らない」「どこかの誰かが共感によって愚痴を浄化してくれる」ことが期待できます。
それに依存し過ぎてしまうと愚痴をこぼして共感を得ることが快楽となり、愚痴をこぼすことが目的化して延々と悪感情を生産するモンスターと成り果ててしまう危険もありますが、少なくとも日々の愚痴の処理程度の範囲であればブログやSNSは上手く活用できることでしょう。
結言
愚痴っぽい話ではなく、愚痴に関する話となってしまいました。
書き始めた時は何かを愚痴ろうと思っていたのですが、忘れました。途中で方向がおかしいと気付いたものの、後の祭り。
ちなみに、「忘れる」行為も愚痴と同様に有効な時があります。しんどいことも、覚えていなければ一過性のものに過ぎません。「忘れる」行為は一種のライフハックです。もちろんなんでもかんでも忘れてしまえばいいかと言えばそれは論外ですので、節度を守って使いこなしていきましょう。